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ウィリアム・ダマー : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・ダマー[ちょうおん]

ウィリアム・ダマー(、1677年10月10日 - 1761年10月10日)は、植民地時代アメリカ合衆国マサチューセッツ湾直轄植民地政治家である。1716年から1730年までの14年間植民地の副総督を務め、その間に1723年から1728年までの長期にわたって総督代行も務めた。ダマーの戦争またはラル神父戦争と呼ばれることもあるインディアンとの戦争で植民地を率いたその役割で記憶されている。この戦争は北アメリカ北東部のイギリス領植民地と、現在のニューハンプシャー州メイン州ニューブランズウィック州ノバスコシア州にいたインディアンの緩い同盟との間で戦われた。
ダマーはマサチューセッツの裕福な商人の家に生まれ、若い時にイングランドに旅して事業経営に参加した。1712年にマサチューセッツに戻ると、植民地の政界に入り、弟のジェレマイア・ダマーの働きを通じてイギリス王室から副知事に任命された。総督のサミュエル・シュートが多くの事項について議会と衝突した多難な時代にこの職を務めた。シュートは1722年末に全く突然植民地を離れたが、それは北ニューイングランドのインディアンとの戦争真っ只中だった。
この戦争はダマーによって幾分都合の良い結末がもたらされた。ダマーはアベナキ族との条約を交渉し、それが後の条約に受け継がれる基本になった。1728年、シュートはウィリアム・バーネットに交代させられたが、バーネットがその地位にあった1年半は、その給与に関する辛辣な闘争で消費された。バーネットは在任のまま死亡し、1730年にジョナサン・ベルチャーが後任になった。ベルチャーはウィリアム・テイラーを副総督に選んだ。
その後ダマーは辞職し、バイフィールドにある自分の農場とボストンの自宅の双方で過ごした。教育の推進者であり、マサチューセッツのプレパラトリー・スクール設立のための資金を遺贈し、そのためにバイフィールドの敷地を寄付した。その後長くダミー・アカデミーあるいはダマー総督アカデミーと呼ばれていたが、現在は総督のアカデミー(ガバナーズ・アカデミー)と呼ばれている。
== 初期の経歴 ==
ウィリアム・ダマーはマサチューセッツ湾直轄植民地の首都ボストンで生まれた。父はジェレマイア・ダマーであり、アメリカ生まれでは初の銀細工職人だった。母はアンナ(旧姓アットウォーター)だった。祖父のリチャード・ダマーはマサチューセッツ初期の開拓者、かつ植民地でも裕福な者であり、判事サミュエル・スウォールの親せきでもあった〔Morison, p. 165〕〔Currier, p. 322〕。ダマーは9人兄弟の中で最初の子であり、その中では4人のみが成人した。1677年9月29日(ユリウス暦グレゴリオ暦では10月10日)に、ボストンのオールド・サウス教会で洗礼を受けた〔Phillips, p. 39〕〔In the Julian calendar, then in use in England and its colonies, dates were 11 days before those in the currently used Gregorian calendar, which was then in use in other parts of Europe. Dates in this article are in the Gregorian calendar unless otherwise noted.〕。
ダマーの青年時代についてはほとんど知られていない。一家には富があったので恐らくはボストン・ラテン・スクールで学んだが、ハーバード大学には進まなかった〔。弟のジェレマイアはハーバードで学び、その後ヨーロッパに行ってライデン大学ユトレヒト大学で学んだ〔Batinski, p. 10〕。
1702年、ダマーはボストンのエンシャント・アンド・オナラブル砲兵中隊の一員に選ばれた〔Roberts, p. 337〕。1700年代初期と考えられる時期にイングランドに行って、一家の拡大した商売に加わった。マサチューセッツには1712年に戻って来た〔Currier, p. 317〕。イングランドにいる間にダマー家の従妹と結婚したとされているが、その妻の死でマサチューセッツへの帰還が早くなった可能性がある。この結婚から子供は生まれなかった〔Phillips, p. 42〕。その後の1714年4月26日、マサチューセッツ総督ジョセフ・ダドリーの娘キャサリン・ダドリーと再婚した〔Currier, p. 319〕。ダマーの父は息子の結婚を予測した贈り物として、1712年11月にニューベリーのバイフィールドにあるかなり大きな土地を与えた。この土地は夫婦の田舎の家になった。ダマーはニューベリーの農場とボストンの自宅を行き来して過ごした〔Currier, p. 318〕。
1714年にイギリス女王アンが死亡し、その治世に発行していた命令が失効することになった。このことでダドリーの支持者達と、植民地通貨の多量発行を扱うよう考えられた土地銀行提案者達の間で、マサチューセッツの指導者への指名を巡って政治的な混乱が起こった〔Batinski, p. 24〕。ダマーの弟ジェレマイアはロンドンにあって。ダドリーの派を代表していた。ジェレマイアはダドリーの再指名を確保できなかったが、彼とジョナサン・ベルチャーが土地銀行派によって選ばれた後継者エリジアズ・バージェスを買収して、その任務を諦めさせることができた。1716年6月、最終的に総督の任務は土地銀行の反対者サミュエル・シュートに決まり、ダマーが副総督になった〔〔Batinski, p. 25〕。シュートはその後の10月に植民地に到着し、その時点でダマーと共に任務に就いた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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