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ウィリアム・ディクソン・ボイス : ミニ英和和英辞書
ウィリアム・ディクソン・ボイス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ウィリアム・ディクソン・ボイス : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・ディクソン・ボイス

ウィリアム・ディクソン・ボイス(英:William Dickson "W. D." Boyce、1858年6月16日-1929年6月11日)は、アメリカ合衆国の新聞社主、起業家、雑誌出版者、および探検家である。アメリカ・ボーイスカウトと短命だったがアメリカ・ローンスカウトの設立者である。ペンシルベニア州のアレゲーニー郡で生まれ、若いときからアウトドア活動を愛するようになった。学校の教師や鉱山の坑夫として働いた後で、オハイオ州のウースター・アカデミーに入学し、その後アメリカ合衆国中西部カナダに移動した。目先が利く実業家としてのボイスはマニトバ州ウィニペグでの「ザ・コマーシャル」やノースダコタ州リスボンでの「リスボン・クリッパー」など幾つかの新聞を設立して成功した。最初の妻メアリー・ジェーン・ビーコムと共にシカゴに移転して起業家としての野望を追求した。そこでは新聞発行相互会社や週刊の「サタデー・ブレイド」を設立し、田園部の購読者を創出して数多い新聞少年によって配達された。新聞少年を雇うという新規さで新聞の売り上げが急上昇し、ボイスの名前を冠する出版社は1894年までに週50万部を発行するようになった。その事業では労働組合を支持し、新聞少年の生活福祉を維持することで表されたように、ボイスは強力に労働者の権利を支持した。
20世紀の初めまでに、ボイスは億万長者となっており、その事業からは1歩身を引いて、市民生活における興味を追求するようになり、旅行をしたり遠征隊に参加することに多くの時間を費やすようになった。1909年、写真家のジョージ・R・ローレンスや漫画家のジョン・T・マカッチャンと共に、ヨーロッパへの2ヶ月の旅行とアフリカへの大写真遠征に出発した。その後の20年間、ボイスは南アメリカ、ヨーロッパ、北アフリカへの遠征を率い、新しく発見されたツタンカーメン王の墓も訪れた。
ボイスは1909年に最初のアフリカへの遠征の時に、ロンドンを通過してスカウト運動のことを知った。幾分作り話のような伝説に拠れば、ロンドンの深い霧の中で道に迷ったが、一人の少年の案内で目的地にたどり着いた。その少年はボーイスカウトとしての義務を果たしているだけだとボイスに伝えた(無名スカウトの善行)。ボイスはその後スカウト運動についての印刷物を読み、アメリカ合衆国に戻ってからアメリカ・ボーイスカウトを設立した。この時からボイスは、少年を「大人にするために」自立、市民としての意識、問題解決力、愛国心、従順さ、快活さ、勇気、および礼儀を教えるスカウト運動に注力した〔。スカウトの最高責任者ジェイムズ・E・ウェストとスカウト運動について意見が対立した後は、アメリカ・ボーイスカウトを離れて1915年1月にアメリカ・ローンスカウトを設立した。これは部隊を作ってパトロールをしたりする機会の限られた田園部の少年達に機会を提供するものだった。1924年6月、アメリカ・ボーイスカウトともがき苦しんでいたアメリカ・ローンスカウトの統合が完成した。ボイスはそのアメリカ・ボーイスカウト運動における功績で、シルバー・バッファロー章を始め多くの賞を受賞し記念碑も建てられた。
== 個人生活 ==

ボイスは1858年6月16日に、ペンシルベニア州ニューテキサス、現在のプラム・バロウで、長老派教会員であるデイビッドとマーガレット・ジェーン・ブラットンのボイス夫妻の子供として生まれた〔。ボイス家にはウィリアム・ディクソン、メアリー、およびジョンの3人の子供がいた〔。ボイスはその田園での少年時代にアウトドア運動への愛着を得た。16歳の時に学校の教師を始め、その後短期間鉱山の坑夫として働いた。また教師に戻り、その後オハイオ州のウースター・アカデミーに妹と共に入った。学校の記録に拠れば1880年から1881年まで通ったことになっている ボイスが卒業したのか退校になったのかは不明である。。その後は中西部とカナダで教師、木樵、秘書およびセールスマンを経験してからシカゴに入り、そこで直ぐに説得力があり明敏なセールスマンとして知られるようになり、急速に事業のやり方を学んだ〔。ボイスの事業、旅行および遠征に関する著書には、しばしば「我々は突き進んだ」(We pushed on)という文が使われている〔。1884年1月1日、ボイスはペンシルベニア州での子供時代から知っていたメアリー・ジェーン・ビーコム(1865年-1959年)と結婚した〔〔。ボイスは彼女のことをベッツィーと呼んだ〔が、ポーカーではボイスに匹敵する腕があり、射撃がうまく、鞍に跨って馬を乗りこなしたので、多くの者にとって彼女のニックネームは「ガラガラヘビのジェーン」だった。この夫妻には1人の息子ベンジャミン・スティーブンス(1884年-1928年)と2人の娘ハッピー(1886年-1976年)とシドニー(1889年-1950年)が生まれた。ボイスの個人的な活動としては、狩猟、ヨット乗り、友愛会、フリーメイソン、シュライナー、ゴルフ、カントリークラブ、およびシカゴ・フザール(独立系騎兵組織)などがあった。
1903年、ボイスはイリノイ州オタワに38エーカー (15.2 ha) の土地と4階建ての邸宅を購入し、そこが家族と社交の中心になった。その後ボイスはシカゴとその社交界にほとんど興味を示さなかった。ボイスは事業のためだけにそこへ行った。ボイスとメアリーの関係は次第に別々の生活をするようになり、最終的には離婚になったが、その時までにボイスが名声を得ていたので、「シカゴ・トリビューン」の1面で報じられた。この離婚は1908年9月にサウスダコタ州キャンベル郡の裁判所で確定した。メアリーの財産取り分は100万ドルに近くなった。
離婚が確定した後で、ボイスはイリノイ州オークパーク出身の歌手バージニア・ドーカス・リーと交際した。バージニアは23歳年下であり、ミズーリ州元副知事ジョン・アダムズ・リーとバージニアの夫妻の長子だった。妻のバージニアの両親とボイスの息子のベンはその関係に反対した。1910年5月、結婚の計画が発表された後で、怒り狂ったベンがブラックストーンホテルの外でボイスと乱闘になり、ボイスは顔に怪我をした。ベンは風紀紊乱行為で逮捕され、裁判費用の5ドルを科された。2日後、ボイスとバージニアは結婚し、長期ハネムーンでヨーロッパに行った。この直後に家族の中や新聞でこの結婚に対する疑いが生じた。1911年4月9日、ボイスとバージニアの間には娘が生まれ、バージニアと名付けた。数ヶ月後の1911年12月、ボイスは幼い娘を支援し教育する同意書に署名した。1912年3月に妻のバージニアが離婚訴訟を起こした後、彼女は娘と両親と共にカリフォルニア州サンタバーバラに移動した。ボイスは離婚について争わず、20万ドルの慰謝料を払った。1年後、バージニアはニューヨークの銀行家リチャード・ロバーツと結婚して、ボイスの娘と共にコネチカット州グリニッジに移動した。娘のバージニアには姓をロバーツに変えさせた。娘は8歳になるまで生みの親のボイスに会わなかった。
息子のベンは1912年6月11日ネブラスカ州オマハ出身のミリアム・パターソンと結婚した。ボイスとその最初の妻が結婚式に出席した。このときメアリーはシカゴにある彼女の資産とオタワにある家屋を交換しており、これが彼女とボイスが和解するかもしれないという思惑の火付け役となった。翌年の1913年6月14日に2人はオタワで再婚した。2人は娘のハッピー、息子のベンとその妻のミリアムと共にアラスカハワイフィリピンパナマおよびキューバを回るハネムーンに出発した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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