|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
ウィリアム・シュワード・バロウズ二世(、1914年2月5日 - 1997年8月2日)は、アメリカの小説家。1950年代のビート・ジェネレーションを代表する作家の一人。1960年代にJ・G・バラードらによってニュー・ウェーブSFの輝く星として称えられた。その後も、パフォーマンス・アーティストのローリー・アンダーソンや、ロックミュージシャンのカート・コバーン(ニルヴァーナ)らによって、最大級の賛辞を受けている。私生活では、ウィリアム・テルごっこをして誤って妻を射殺したり、同性愛の男性にふられて小指を詰めたりするなど、何かとエピソードに事欠くことがなかった。 == 来歴 == 1914年、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスに生まれる。ニューヨーク州生まれの祖父ウィリアム・シュワード・バロウズ1世はキー入力式歯車式加算機を安定駆動する油圧装置を発明した発明家で、バロース加算機社(創業からちょうど100年目に当たる1986年に、バロース社がスペリー社を買収し、世界第2位のコンピュータ企業ユニシス社となった)を設立したことで知られる。しかし彼は43歳で早世し、残された息子たちは遺産管理人のアドバイスに従い、相続した株式や特許の全てを売却してしまう。そのためその後のバロース社の株価高騰(株式は1929年の大暴落前には当時の価値で20万ドルに上るものであったという)の恩恵に浴すことはなかった。とはいえ女中を雇えるほどの裕福さは続いた(悪夢に悩む幼き頃のバロウズに、この女中は「阿片を吸うと良い夢が見れるのよ」と言い、それを聞いたバロウズは、「大きくなったら阿片を吸うんだ!」と答えたという)。 バロウズの父はガラス工場を経営するありふれた中小企業主だった。その息子であるバロウズはアメリカ中西部で退屈な少年時代を送った。高校時代は魚釣り、狩猟、ハイキングを好み、そして何よりも本をよく読んだ。学校には全く馴染めず、唯一の友人との友情も、悪戯紛いの悪事が露呈したことによって破綻してしまう。その後は名門であるハーバード大学に入学する。英文学を専攻し、T・S・エリオットを研究した。もっとも、英文学を専攻したのは、単にそれ以外に興味を持てる学科がなかったからというだけの消極的理由によるものだった。また、学業にあまり熱心でなかったバロウズがハーバード大学に入学したのは、母親の期待に応えるためとも言われる。 1936年に、いわく「まずい成績で」大学を卒業してから、毎月受け取ることになった信託財産(仕送り)(2003年における山形浩生による解説によれば、受け取っていたのは金額にして200ドル、山形の執筆当時の感覚で言えば20–30万円に相当するという)のおかげで、バロウズ自身、当初は働く必要は何もなかったと明言している。しかし徐々にかさむ麻薬代を工面するために、初めて働く必要に迫られることになる。 当時は世界恐慌の真っ直中で、ハーバード大卒という華々しい学歴も役に立つことがなかったこともあり、第一次世界大戦の傷跡がいまだ色濃く残るヨーロッパへと旅行に出掛ける。旅先ではウィーンの医学校に入学した。そこで知り合ったユダヤ人女性イルゼ・クラッパー(Ilse Klapper)との偽装結婚によって彼女のアメリカ(ニューヨーク市)への国外逃亡の手助けをしている。時勢は徐々に、しかし確実に二度目の世界大戦へと向かいつつあり、ナチスとその反ユダヤ主義の不穏な影が急速な広がりと共に迫って来ていたまさにその当時であった。ウィーンはもはや既にユダヤ人にとって安全な場所ではなくなっており、事実オーストリアはこの翌年、ナチスによってドイツに併合(アンシュルス)されることになる。理由はともかくバロウズも、肝心の医学校には結局6ヶ月間しか通うことがなかった。しかしながら、医学への興味と関心は失われることがなく、生涯に渡る趣味として学び続けた。また、ウィーンの医学校での出会いから始まったイルゼとの友情はその後も長年に渡り続くことになる。 帰国後はシカゴでアルフレッド・コージブスキーの一般意味論のセミナーを受講し、また柔術を学んでもいたという。次いでコロンビア大学大学院で心理学と人類学の講義を2年間受け、そのまま母校のハーバード大学大学院で人類学の講義をさらに2年間受けた。またこの間に3年ほど、真剣に精神分析治療を受け、最終的に彼は抑圧と不安から解放され、自分で自分が生きたいように生きられるようになる(あるいは救いと解放を得る)ことに成功する。ちなみにこの治療に当たった精神分析医は、最後までバロウズの「性的指向」(彼は同性愛者あるいは両性愛者であった)を執拗に問題視し、「治療」の試みを諦めることがなかったが(当時、同性愛は治療可能な精神疾患の一種だと考えられていた)、バロウズはそれを意に介することなく治療を終えている。 その後は住む場所を転々としながら仕送りに頼りながら生活する。ニューヨークに住んでいた時にビート世代の詩人アレン・ギンズバーグや、作家ジャック・ケルアックらと知り合うことになる。1949年からメキシコ・シティに住み、1953年にデビュー作『』(''Junkie: Confessions of an Unredeemed Drug Addict'')を発表する。しかしながらアメリカの文学界における反響は皆無で、一時は作家として生きていくことを諦めた。 1953年、モロッコのタンジールに移住し、同時に15年以上浸ったドラッグと決別する姿勢を見せ始める。1959年、ギンズバーグらの熱心な勧めと手助けにより、書き溜めた文章を元に構成した小説『裸のランチ』を発表する。その内容は猥褻かつグロテスクなものであり、アメリカ政府から発禁処分を受けるはめになる。しかしこのことがかえって話題となり、実験小説の雄として祭り上げられた。 一度はドラッグから完全に足を洗っていたバロウズだが、65歳(1979年)になって再びヘロイン依存症に陥ってしまう(これには彼の元に感心しかねる “贈り物” を持参してくる熱心なファンの影響があったとも言われている)。このため、1997年に83歳で亡くなった時にはメタドンによる維持療法を受けていた。 文章をバラバラに刻んでランダムに繋げる「カットアップ」という実験的な手法の発明者であり、この手法を駆使した作品を何作か発表しているが、1980年代に入ってからはストーリー性を重視したスタイルに移行している。 『裸のランチ』は、1992年にカナダの映画監督デヴィッド・クローネンバーグにより映画化された。ただ、作品は原作を忠実になぞったような性格のものではなく、あくまでバロウズの作品を元に、クローネンバーグによって新たに再構成された、オリジナル作品というべき内容になっている。 晩年のバロウズは、神格化され、多数の映画にカメオ出演した。 作品の邦訳は、鮎川信夫、諏訪優、飯田隆昭、山形浩生、柳下毅一郎らによって行われている。 また、近年、演出家・劇作家の夏井孝裕が『裸のランチ』を演出するなど、若い世代のアーティストにも影響を与え続けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・S・バロウズ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 William S. Burroughs 」があります。 スポンサード リンク
|