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ウィリアム・ネルソン・ペンドルトン(英:William Nelson Pendleton、1809年12月26日-1883年1月15日)は、アメリカ合衆国の教師、アメリカ聖公会牧師であり、軍人である。南北戦争のときは南軍の将軍となり、ロバート・E・リーの指揮した戦闘の大半で砲兵隊長を務めたことで名高い。戦後、牧師に復帰し、宗教的な著作を著した。 == 初期の経歴 == ペンドルトンは1809年にバージニア州リッチモンドで生まれた。両親はエドマンド・ペンドルトンとその妻ルーシー・ネルソン・ペンドルトンであり、そのプランテーションで育った〔Wakelyn, p. 341.〕。初等教育は家庭教師から受け、その後リッチモンドにあるジョン・ネルソンの学校に通った〔Warner, p. 234; Wakelyn, pp. 341-2.〕。父は兄のフランシス・ウォーカー・ペンドルトンにウェストポイントの陸軍士官学校に入学できるよう手配したが、兄のフランシスが軍隊に興味のないことを意思表示したときにウィリアム・ペンドルトンがその代わりに入学した〔Krick, p. 48.〕。1826年に士官学校に入り4年後に同期42人中5番目の成績で卒業した〔Eicher, p. 424.〕。 ウェストポイントの時の同級生の中には、後に南軍の将軍となったジョセフ・ジョンストン、ロバート・E・リー、ジョン・マグルーダー(ペンドルトンと同室だった)がおり、また後の政治家ジェファーソン・デイヴィスもいた〔。ペンドルトンは1830年7月1日にアメリカ陸軍の名誉少尉に任官された。同じ日に少尉として第2アメリカ砲兵隊に配属となった〔。その連隊はサウスカロライナ州チャールストン港を守るムールトリー砦勤務を命じられたが、その秋にペンドルトンはマラリアに罹り、健康を快復するためにジョージア州オーガスタの武器庫勤務に配置換えされた。1831年7月15日、ペンドルトンはエリザベス・ペイジと結婚し、その後4人の子供が生まれた。ただ1人の息子アレクサンダー・スウィフト・ペンドルトン大佐も南軍で従軍することになり、1864年9月19日のオペクォンの戦いで戦死した〔Krick, p. 49; Wakelyn, p. 342.〕。娘のスーザンは後の南軍将軍エドウィン・G・リー(ロバート・E・リーのはとこ)と1856年11月16日に結婚した。 ペンドルトンは1831年にウェストポイントに戻って数学を教え、1832年10月27日、第4アメリカ砲兵隊配属となった。1年度の1833年10月31日にアメリカ陸軍から除隊することになったが、これはその出身州が無効化条例を発したためだとされている〔Wakelyn, p. 342.; Eicher, p. 424.〕。1833年、ペンドルトンはペンシルベニア州バックス郡にあるブリストル・カレッジの教員となり、数学を教えた。1837年、デラウェア州のニューアーク・カレッジの数学教師を始めた。同じ年、ペンシルベニア州でアメリカ聖公会の牧師に叙任され、1840年にはデラウェア州のウィルミントンにある聖公会男子高校で教え始めた。3年後にメリーランド州ボルティモアに転居し、1847年に教師を辞め、オールセイント教会の教区牧師となった。1853年、バージニア州に戻り、レキシントンのグレイス教会教区牧師となり、そこにいる時に南北戦争が始まった〔Wakelyn, p. 342〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・ペンドルトン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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