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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ウィリアム・エドガー・ボーラ(英:William Edgar Borah、1865年6月29日-1940年1月19日)は、アメリカ合衆国の著名共和党員、弁護士であり、長期間アイダホ州選出のアメリカ合衆国上院議員を務めた。その弁舌の技術と孤立主義的見解で注目された。その人生後半の渾名は「アイダホのライオン」だった。 == 初期の経歴 == ボーラはイリノイ州ウェイン郡の公立学校およびエンフィールドのサザン・イリノイ・アカデミーで教育を受けた。H・T・ウェブスターが1916年に出版した漫画によれば、少年時代に鉄道の車掌になりたいという願望があった〔"The Best of H. T. Webster" (Simon and Schuster, 1953), page 104〕。1885年にカンザス大学に入学したが、新入生の年に結核を患って退学を余儀なくされた。ボーラは法律を勉強し、1887年9月に法廷弁護士として認められた。カンザス州ライアンズで法律実務を行った後、1890年にアイダホ州ボイシに移転し、その新しい州で最も傑出した弁護士になった。 ボーラは、牛の放牧会社で働いていた牧童を殺したとして告発された"ダイアモンドフィールド・ジャック"・デイビスの死刑判決を変更した事に抗議する手紙を赦免委員会に送ったことがあった〔Grover, David H. "Diamondfield Jack; A Study in Frontier Justice" (University of Nevada Press, 1968)〕。ボーラは1902年にアメリカ合衆国上院議員になることを目指したが、アイダホ州議会ではウォレス出身の共和党員弁護士ウェルドン・B・ヘイバーンに敗れた。 後に上院議員になった直後の1907年、元アイダホ州知事フランク・ストイネンバーグを殺害した廉で"ビッグ・ビル"・ヘイウッドとその他急進的労働組合役員2人の全国的に報道された裁判で、検察官としてのボーラはクラレンス・ダロウと対決した。 ボーラは1895年にウィリアム・J・マコーネル知事の娘、メアリー・マコーネルと結婚した。夫妻には子供が無かった。 セオドア・ロ-ズヴェルト大統領の娘である愛人アリス・ロ-ズヴェルト・ロングワースとの間に娘ポーリナ・ロングワースが生まれた。 == 上院議員 == 1906年、アイダホ州議会は州選出のアメリカ合衆国上院議員について、論争のあった民主党員現職のフレッド・デュボアの替わりにボーラを選出した。ボーラは1912年にも州議会によって再選され、一般選挙になった後も1918年、1924年、1930年および1936年と4度再選された。アイダホ州の歴史の中でも最も長くアメリカ合衆国議会議員を務めた者となっている。 1908年から1912年には共和党全国委員会の委員となり、1912年共和党全国大会の代議員となった。上院議員としてのボーラは党に忠実であるよりも原則を曲げない者となり、そのことで「偉大な反対者」という渾名も貰った。外交政策では縺れた国家間の同盟を嫌い、傑出した反帝国主義かつ民族主義者となって、アメリカのリベラル政治とヨーロッパ大国政策の分離を続けることに賛成した。一連の世界経済協議会を開くことを奨励し、低い関税に賛成した。 1919年、ボーラとの他の共和党上院議員、著名な者ととしてはマサチューセッツ州のヘンリー・カボット・ロッジやカリフォルニア州のハイラム・W・ジョンソンが、第一次世界大戦を終わらせるヴェルサイユ条約と国際連盟の設立の上院における批准についてウッドロウ・ウィルソン大統領と衝突した。ボーラは、条約と連盟に妥協せずに反対することで注目された上院議員集団、「イレコンシラブルズ」(妥協しない人)の指導者として頭角を現した。1919年の間、ボーラとジョンソンは、ウィルソン大統領が条約を支持する演説旅行に出たのに対抗して、条約に反対する国内行脚を行った。1919年11月19日、上院議場で行ったボーラの条約と国際連盟に反対する印象的な演説が最終的に上院の拒否決議に繋がることになった〔Classic Senate Speeches: William E. Borah to The League of Nations on November 19, 1919. Accessed May 15, 2008.〕。 1925年から1933年、ボーラは上院外交委員会の委員長を務めた。その時にソビエト連邦の認知に賛成してソ連寄りの見解で知られるようになり、モスクワがアメリカ合衆国と公式の関係を持たない期間に、権限を越えたやり方でソビエト政府との仲介を行うこともあった。噂に拠れば、クレムリンの政府はボーラのことを高く評価していたので、この上院議委員の紹介状以外何も持たなくてもアメリカ市民がソビエト連邦の中を旅行できる許可を得ることができたということである。 内政では、アメリカ合衆国労働省や同児童局を創設する法案を提案した。ウォレン・ハーディング政権のスキャンダルを暴いたとされる上院議員達の一人となった。1932年、世界恐慌の中でハーバート・フーヴァー大統領の保守的な政策に飽きたらず、フーバーの再選を求めた運動への協力を公然と拒否した。 民主党のフランクリン・ルーズベルトにフーバーが敗れた後、ボーラはこのとき上院の長老となっており、ニューディール政策の特定の政策、例えば老齢年金や執行命令によるアメリカ合衆国市民の金(きん)の没収については支持したが、他の全国産業復興法や農業調整法などには反対した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・ボーラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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