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ウィリアム・ラム : ミニ英和和英辞書
ウィリアム・ラム[らむ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラム : [らむ]
 【名詞】 1. (1) lamb 2. (2) rump 3. (3) rum 4. (4) RAM (random access memory) 5. (P), (n) (1) lamb/(2) rump/(3) rum/(4) RAM (random access memory)

ウィリアム・ラム ( リダイレクト:ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵) ) : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)[らむ]

第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム(, 、1779年3月15日 - 1848年11月24日)は、イギリス政治家貴族
グレイ伯爵退任後のホイッグ党を指導し、ホイッグ党政権の首相を二度にわたって務めた(第一次:1834年、第二次:1835年-1841年)。ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝初期にかけて保守党トーリー党)党首ロバート・ピールと政権を奪い合った。ヴィクトリア女王即位時の首相であり、女王の寵愛を受けた。1842年に政界の第一線を退き、代わってジョン・ラッセル卿がホイッグ党を指導していく。
== 概要 ==
1779年メルバーン子爵家の次男として誕生。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学。さらにリンカーン法曹院で学び、弁護士となる。1805年に兄が死にメルバーン子爵家の跡取りとなる。また同年にキャロライン・ポンソンビーと結婚した(''→生い立ち'')。
1806年庶民院議員に初当選。初めホイッグ党に所属していたが、1816年からトーリー党へ移籍した。妻キャロラインの不倫事件で著名となる(''→若手議員'')。
1827年ジョージ・カニング内閣でを務めた。1828年のカニングの死後、と呼ばれるカニングの路線を継承する派閥に加わる。ウェリントン公爵内閣では他のカニング派閣僚とともに首相ウェリントン公爵の守旧的方針に反発して辞職した(''→トーリー党政権の閣僚'')。
その後、ウィリアム・ハスキソン指導下のカニング派に属して野党となった。1828年に爵位を継承し、貴族院議員となる。1830年のハスキソンの死後にはカニング派を継承。ホイッグ党との連携を推進し、同年11月にはウェリントン公爵内閣を倒閣した(''→カニング派としての野党期'')。
代わって成立したホイッグ党政権のグレイ伯爵内閣に内務大臣として入閣。同内閣で行われた第一次選挙法改正をめぐっては慎重派だった(''→ホイッグ党政権の閣僚'')。
1834年7月にグレイ伯爵が首相を辞職すると代わって組閣の大命を受け、を組閣した。しかし国王ウィリアム4世と人事案をめぐって対立を深め、同年11月に罷免された(''→第一次メルバーン子爵内閣'')。
後任の保守党政権第1次ピール内閣を1835年4月に総辞職に追い込み、を成立させた。改革を抑えることを条件に与党攻撃を控えるという協約を野党保守党と結んで政権運営を行った(''→組閣までの経緯'')。1837年6月に即位したヴィクトリア女王から相談役として信頼され、寵愛を受けた(''→ヴィクトリア女王即位'')。1838年に盛り上がった労働者運動チャーティズム運動は徹底的に弾圧した(''→チャーティズム運動取り締まり'')。1839年5月には議会掌握の行き詰まりで辞表を提出したが、後任ピールの寝室女官人事を女王が拒否する事件があったため、メルバーンが続投することになった(''→寝室女官事件'')。在任中、外務大臣パーマストン子爵の主導で阿片戦争第一次アフガン戦争を開始し、またベルギー独立革命や第二次エジプト・トルコ戦争の仲裁を行った(''→外交問題'')。1841年6月のにホイッグ党が敗れた結果、総辞職した(''→総辞職'')。
首相退任の翌年1842年にホイッグ党党首の座をジョン・ラッセル卿ランズダウン侯爵に譲った。退任後も女王と親密だったが、女王の相談役は夫アルバート公子に転じつつあったため、宮中での影響力も低下していった。1848年に死去(''→首相退任後'')。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 William Lamb, 2nd Viscount Melbourne 」があります。




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