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ウィンストン・ライリー(Winston Riley、1946年〔cap.jamrid.com 〕 - 2012年1月19日)は、ジャマイカの音楽プロデューサー、作曲家、歌手、ベーシスト。 1980年代のダンスホールレゲエを牽引したテクニクス・レーベルの主宰者として最も有名であるが、1960年代後半に活躍したロックステディのコーラスグループ、テクニクス (Techniques) のオリジナルメンバーとしてや、レゲエ歌手ジミー・ライリーの兄としても知られる。 ==経歴== 1946年、ジャマイカ、キングストンに生まれる。1958年頃、11歳のときにタレントコンテストなどで活動を開始。高校に進学した1962年にはスリム・スミス、フレデリック・ウェイト、フランクリン・ホワイトと共にテクニクスというコーラスグループを結成し、エドワード・シアガが所有していたチョコモ・ローン・クラブなどで活動を開始した〔〔。テクニクスのメンバーは平行してヴィクターズ〔シアガが所有していた同名のナイトクラブに由来するという説がある。石井EC志津男監修『ラフンタフ』リットーミュージック、2008年、164ページ〕という名義でバンド活動も行っており、ライリーはベースを担当していた。 テクニクスは1963年、コロムビア・レコードからイギリスのみで発表された、"No One"でレコードデビュー〔Larkin, Colin (1998) "The Virgin Encyclopedia of Reggae", Virgin Books, ISBN 0 7535 0242 9〕〔Thompson, Dave (2002) "Reggae & Caribbean Music", Backbeat Books, ISBN 0-87930-655-6〕。 その後トレジャー・アイル、スタジオ・ワンなどのレーベルから多くの作品を発表するが、1966年にはリードボーカルだったスミスとホワイトが脱退〔スミスが中心となりユニークスが結成された。〕。代替メンバーとしてパット・ケリー、デイヴ・バーカーらを迎え"You Don't Care"、 "Queen Majesty"、 "I Wish It Would Rain"、 "It's You I Love"、 and "Love Is Not a Gamble"などの楽曲を発表するが、1968年頃ライリーがテクニクス・レーベルを立ち上げたことにより解散する。 プロデューサーとして活動を開始したライリーは、トミー・マクック&ザ・スーパー・ソニックスらを起用し自身の"I'm in Love"を制作。1969年にプロデュースしたデイヴ・アンド・アンセル・コリンズの"Double Barrel"は1971年にUKシングルチャート1位を獲得する大ヒットを記録した。 1973年にはアンセル・コリンズのインストナンバーとして"Stalag 17(スタラグ17)"をリリースする。この曲名は同名の映画(邦題:『第十七捕虜収容所』)にちなんでつけられ、スタラグリディムの記念すべき最初のトラックとなる。スタラグは、"Stalag 18"、"Stalag 19"、"Stalag20"、"Ring the Alerm Quick"、"Stalag 2000"など繰り返しリメイクされ、現在においてもダンスホール・レゲエにおける重要なリディムとなっている。 1980年代から1990年代前半はライリーの黄金期となった。1982年、シスター・ナンシーの"Bam Bam"をヒットさせると、1985年、テナー・ソウの"Ring the Alerm"、1986年にはスーパーキャットの"Boops"、1988年にはレッド・ドラゴンの"Agony"、1992年にはブジュ・バントンの"Stamina Daddy"などをヒットさせた。 2012年1月19日に死去〔音楽プロデューサーのウィンストン・ライリーさんが65歳で死去 Newsday 2012年1月21日閲覧〕 。65歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィンストン・ライリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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