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ウィリー・マギー(Willie Dean McGee , 1958年11月2日 - )はアメリカ・メジャーリーグで活躍した野球選手。 外野手。右投両打(スイッチヒッター)。アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身。 == 人物・来歴 == 後に所属することになるジャイアンツがニューヨークからサンフランシスコに移転したに生まれる。 のドラフト会議で、ニューヨーク・ヤンキースから1巡目に指名され、入団したが、メジャー昇格は遅れ、ヤンキースのピンストライプに袖を通すことなく、10月21日にセントルイス・カージナルスに移籍。 の開幕は3Aルイビル・レッドバーズで迎えたが、メジャー昇格を果たし5月10日に初出場。 その年はルーキーながら123試合に出場し、打率.296、4本塁打、56打点、24盗塁の活躍。新人王はロサンゼルス・ドジャースのスティーブ・サックスに譲ったが、遜色ない働きをみせた。 チームはその年ワールドシリーズ進出を果たす。 ミルウォーキー・ブルワーズ(当時はア・リーグ所属)とのワールドシリーズ第3戦では、ワールドシリーズの歴史に残る活躍を見せた。2本塁打を打ったが、これは新人としてはのチャーリー・ケラー、1957年のトニー・クーベック(いずれもヤンキース)に次いで史上3人目。後ににアンドリュー・ジョーンズ(ブレーブス)が4人目となった。そのシリーズでは、ABCのアナウンサーによって「E.T.」と名付けられた。守備でも9回裏にゴーマン・トーマスの本塁打性の当たりをキャッチする活躍。このシリーズは第7戦までもつれ込んだが、最後はカージナルスがワールドチャンピオンに輝いた。 俊足を生かしてトム・ハー、オジー・スミス、ロニー・スミスらとともに「ホワイティ・ボール」(監督ホワイティ・ハーゾグ好みの俊足)の一員として活躍。には初のオールスター出場を果たし、6月23日にはサイクルヒットを達成。そしてには、主に二番を打ち、スイッチヒッターのナ・リーグ記録となる打率.353で首位打者のタイトルを獲得。216安打、三塁打18もリーグ1位。この年新人で110盗塁したビンス・コールマンがいたこともあり、本塁打10ながら82打点をマーク。この活躍でMVPに選ばれた。チームはワールドシリーズ出場を果たしたが、3勝1敗の優位からカンザスシティ・ロイヤルズに敗れる。 守備面でも優れ、ゴールドグラブ賞を3回獲得している。1985年にはシルバースラッガー賞も受賞した。 その後も、1985年、、にオールスターに出場。 1987年には自身三度目のワールドシリーズ出場を果たすが、ミネソタ・ツインズに敗れる。 8月29日に、外野手フェリックス・ホセプラス、マイナー2投手との交換で、ア・リーグのオークランド・アスレチックスに移籍。この時点ですでに最終的な規定打席に達していて、しかも.335の打率を残し、ナ・リーグでそれを上回る選手がいなかったため、メジャー史上初の「シーズン終了時点でリーグに所属していないのに首位打者」という珍事となる。アスレチックスは3年連続の地区優勝・リーグ優勝への追い込みにマギーを獲得し、ワールドシリーズ出場を果たすがシンシナティ・レッズに4連敗に終わる。 オフにフリーエージェント(FA)となって、故郷のサンフランシスコ・ジャイアンツがブレット・バトラー(ドジャースにFA移籍)の後の一番打者を探していたこともあって、契約。からまでは3割前後の活躍を見せるが、は故障で45試合の出場に終わり、自由契約となる。6月6日にボストン・レッドソックスと契約するがこの年も67試合の出場に終わると、には古巣カージナルスに復帰。アスレチックス時代の監督トニー・ラルーサのもと、出場数は少ないものの1996年、は3割をマーク。を最後に現役を引退。 背番号「51」は引退後一度の使用のみであり、2001年以降誰も着用しておらずカージナルスの準永久欠番となっている。ファンの人気は絶大であり、永久欠番となる事が確実視されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリー・マギー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Willie McGee 」があります。 スポンサード リンク
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