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ウエンツ☆修一 : ウィキペディア日本語版
ウエンツ☆修一[うえんつ しゅういち]

ウエンツ☆修一(ウエンツ しゅういち、男性、1982年8月2日 - )は、日本キックボクサー。本名は石村 修一(いしむら しゅういち)。山口県徳山市出身。スクランブル渋谷所属。元J-NETWORKスーパーフライ級王者。
リングネームの由来は、キャラクターがウエンツ瑛士に似ているという理由からであり、名付け親は同ジム所属の増田博正である〔【レベルス】1・23闘魔「ウザいイケメンをボッコボコのザックザクにする」 格闘技ウェブマガジンGBR 2011年1月21日〕。
== 来歴 ==
高校では陸上競技を経験。高校卒業後に調理師となり、その傍ら総合格闘技の練習をするためにスクランブル渋谷の一般クラスに入門。練習するうちにキックボクシングに集中するようになった〔365人インタビュー 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年12月30日〕。
2006年9月3日、R.I.S.E.のアマチュア大会「KAMINARIMON CLIMAX '06」55kg級で優勝を果たした。
2006年10月8日、全日本キックボクシング連盟でプロデビューし、塚原健に3-0の判定勝ち。この試合は本名の石村修一で出場した〔【全日本キック】青春塾祭りで石川がホロ苦勝利、山本優弥はヒジでTKO勝ち 格闘技ウェブマガジンGBR 2006年10月8日〕。2006年11月26日の2戦目からはウエンツ☆修一に改名した〔【ライズ】脩己會の東玖が鮮烈なプロデビュー! MAZENは逆転KO負け 格闘技ウェブマガジンGBR 2006年11月26日〕。
2007年10月6日、全日本キックボクシング連盟で菊地慧と対戦し、左肘打ちでKO勝ち。初のKO勝ちを収めるとともにデビュー以来6連勝となった〔【全日本キック】元MA王者・大高、全日本5位・水落から勝利、ウエンツは6戦無敗 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年10月6日〕。
2007年11月18日、全日本キックボクシング連盟で寺戸伸近と対戦し、左ローキックでKO負け。7戦目での初黒星となった〔【全日本キック】70kgトーナメント開幕戦! 山内、白虎、望月、スターリンが勝ち残る 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年11月18日〕。
2008年2月29日、初参戦となったJ-NETWORKのスーパーフライ級次期挑戦者決定トーナメント準決勝で魂叶獅に3-0の判定勝ち〔【J-NETWORK】HIROYA戦を控えた藤鬥嘩裟が前哨戦で勝利、小宮がアマラ破る 格闘技ウェブマガジンGBR 2008年2月29日〕。6月1日の決勝では割澤誠と対戦し、割澤が右脛を負傷しドクターストップとなりTKO勝ちで王者・KENTへの挑戦権を獲得した〔【J-NETWORK】AKIRA&細野の2大王者も敗れる!日タイ対抗戦は日本全滅 格闘技ウェブマガジンGBR 2008年6月1日〕。
2008年10月3日、王者・KENTが防衛戦を行なうことができなくなったためにJ-NETWORKスーパーフライ級暫定王座認定戦として上谷晃平と対戦し、左ストレートでKO勝ちで暫定王座を獲得〔【J-NETWORK】西山誠人、元ラジャ王者に敗北!ウエンツが暫定王者に 格闘技ウェブマガジンGBR 2008年10月3日〕。その後、11月30日付けでKENTが王座を返上したため、正規王者に認定された〔【J-NETWORK】11・30付けでKENTがベルトを返上、ウエンツ☆修一が正規王者に 格闘技ウェブマガジンGBR 2008年12月4日〕。
2009年6月21日、M-1スーパーフライ級王座決定戦で関正隆と対戦し、0-3の判定負けで王座獲得はならなかった〔【M-1】石毛慎也、惜しくも王座奪取ならず。関、西山、AKIRAが新王者に! 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年6月21日〕。
2010年1月23日、REBELS旗揚げ戦で一戸総太と対戦し、0-3の判定負け。この試合は通常よりも1階級上のバンタム級契約で行なわれた〔【レベルス】日本VSタイ対抗戦は3勝2敗で日本が勝利、藤原あらしは敗れる 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年1月23日〕。
2010年5月8日、タイのルンピニー・スタジアムマンコンダム・シットワンルニーと対戦し、右ローキックでKO勝ち。リングネームはユーテンジ・ウエンツであった〔【ムエタイ】梅野源治&ウエンツ☆修一が聖地ルンピニーでKO勝ち競演 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年5月8日〕。
2010年8月22日、J-NETWORKスーパーフライ級タイトルマッチでTO-MA(闘魔)の挑戦を受け、0-3の判定負けで王座から陥落した〔【J-NETWORK】黒田、シング、佐藤が王座防衛!TO-MAがウエンツを下して新王者に 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年8月22日〕。
2011年1月23日、REBELS.6で行なわれたWPMF日本スーパーフライ級王座決定戦で闘魔と再戦し、0-3の判定負けで王座獲得はならなかった〔【レベルス】渡部太基と闘魔が初代王座に就く!飯田なおプロ2連勝、立嶋篤史は敗れる 格闘技ウェブマガジンGBR 2011年1月23日〕。
2011年4月24日、REBELS.7で行なわれたWPMF日本フライ級王座決定トーナメント準決勝で優希と対戦し1-1のドロー判定。公式記録ではドローだがトーナメントのためマスト判定により1-2の判定負けを喫した。
2011年8月21日、闘魔がタイトル返上した事によりランキング2位の優希とJ-NETWORKスーパーフライ級王座決定戦が行われた。序盤からパンチで攻め込まれ終盤に首相撲で盛り返すも0-2の判定負けを喫し王座復帰に至らなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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