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ウォルシュ商会 : ミニ英和和英辞書
ウォルシュ商会[かい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しょう]
  1. (n,n-suf) quotient 
商会 : [しょうかい]
 【名詞】 1. firm 2. company 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 

ウォルシュ商会 ( リダイレクト:ウォルシュ兄弟 ) : ウィキペディア日本語版
ウォルシュ兄弟[-きょうだい]

ウォルシュ兄弟(-きょうだい)は、幕末から明治にかけて日本で活躍したアメリカ合衆国出身の実業家兄弟。外国人居留地で経営したウォルシュ商会(Walsh and Company、のちにWalsh, Hall and Company)は、日本で初めて成功したアメリカ企業のひとつ。兄はトーマス・ウォルシュThomas Walsh、1827年 - 1900年〔The Diaries of Sir Ernest Satow, British Minister in Tokyo Ernest Mason Satow, Ian C. Ruxton - ‎2010〕)、弟はジョン・ウォルシュJohn Greer Walsh、生年不詳 - 1897年8月)。ジョンはアメリカ合衆国初代長崎駐在領事も兼務した。長兄のリチャードと、弟のロバートも事業を補佐した。
== 経歴 ==
ニューヨーク州ヨンカーズアイルランド移民の子として生まれる〔。兄弟はアジアで実業家として成功することを夢見、上海で貿易業を営んだ〔谷口1986、77頁。〕〔兵庫県人物事典 中巻、13頁。〕。1854年長崎居留地が設けられると兄弟4人で1855年ごろに長崎に移住し、貿易業を営んだ〔。1859年から1965年まで〔a Window to the West: The Foreign Concession at Kobe, Japan, 1868-1899 Peter Ennals, University of Toronto Press, Dec 31, 2013〕〔Jews of China Jonathan Goldstein - ‎1998 〕ジョンはアメリカ合衆国初代長崎駐在領事も務めた〔谷口1986、77-78頁。〕〔兵庫県人物事典 中巻、13頁。〕〔三菱人物伝〕。ただし、無給だったようである〔。1862年ごろにジョンは日本人女性のヤマグチ・リンと結婚し、娘アイコ(1864-1910)をもうけた〔。
横浜港が開港した1859年に、樟脳、金、絹、茶を扱う商社として、トーマスとジョンがジョージ・ホールとともにウォルシュ・ホール商会を設立〔Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" p122 Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013〕。ジョージ・ホールはハーバード大学医学大学院出身の医師〔Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports"p35 Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013〕。横浜居留地にもいち早く進出した(商館が居留地1番地にあったため、「亜米一(あめいち)」と呼ばれた)〔谷口1986、79頁。〕。1862年にジョージ・ホールが帰国することになり、その後任にフランシス・ホールを経営陣に加えた。なお2人のホールは知人であるが、親族ではない〔John Hall Ancestry〕。三菱の創業者、岩崎弥太郎と懇意になり多くの仕事を手掛けるほか、のちに三井物産の創業者となる益田孝を1年ほど雇っていた〔。
1868年に神戸外国人居留地が設置されると同居留地でも営業を開始〔神木・崎山1993、149頁。〕。なお、神戸外国人居留地に商館を構えた直後、兄弟は1871年から1872年にかけて神戸へ移住した〔兵庫県人物事典 中巻、13頁。〕。長兄リチャードの妻とその兄も1874年ごろから神戸で暮らした〔。
ウォルシュ商会は日本へは武器や軍艦を売り、日本からは生糸や食品を輸出したほか、兄弟は神戸で木綿のボロを製紙原料として欧米に輸出する事業を手がけ、収益を挙げた。当時木綿は藍染めされていたため、色素を抜くために石灰を混ぜて固めた状態で輸出していたが、石灰が木綿に含まれる水分と化学反応を起こして発熱し、輸送中に発火する事故が多発していた。そこで兄弟は木綿をパルプ状にして輸出する手法を考案した。製紙業を本格化させるため、1875年に二人の弟のロバートをアメリカに研修に出し〔、翌1876年には神戸外国人居留地近くの三宮1丁目に元イギリス公使のラザフォード・オルコックとの共同出資により製紙工場(神戸製紙所)を建設し、アメリカから製紙機械を輸入して紙の製造を始めた〔神木・崎山1993、149-150頁。〕。
神戸製紙所は輸入製品の不当廉売に苦しみ、経営に行き詰まりを見せたが長崎時代に親交のあった岩崎弥太郎から資金援助を得て〔実際に融資したのは岩崎弥太郎。〕操業を続けた〔谷口1986、83-84頁。〕〔三菱人物伝〕。兄弟は次第に事業の軸足を製紙業に移すようになったが1897年8月にジョンが神戸で急死。弟の死にショックを受けたトーマスは事業への情熱を失い、製紙所を岩崎久弥に譲渡した。神戸製紙所は現在三菱製紙として存続している〔谷口1986、84-85頁。〕〔神木・崎山1993、151頁。〕〔三菱人物伝〕。トーマスは事業譲渡後に日本を去り、スイスへ移住した〔谷口1986、85頁。〕〔兵庫県人物事典 中巻、13頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウォルシュ兄弟」の詳細全文を読む




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