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ウォルター・ウェストン(Walter Weston, 1861年12月25日-1940年3月27日)は、イギリス人宣教師であり、日本に3度長期滞在した。日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などを著し、日本アルプスなどの山及び当時の日本の風習を世界中に紹介した登山家でもあり、訪日の前後にはマッターホルンなどのアルプス山脈の山に登頂していた。 == 来歴 == * 1861年(万延元年)12月25日 - イギリスのダービー市に生まれる。父親の名はジョン・ウェストン。母親の名はエンマ・バットランドであり、その六男。 * 1876年(明治9年) - 1880年(明治13年)まで、ダービー・スクールで教育を受け、ケンブリッジ大学クレア・カレッジで学ぶ。 * 1883年(明治16年) - Bachelor of Artsを取得。 * 1885年 - 聖公会の執事に按手される〔Weston, Walter (1860–1940) (Oxford DNB)〕。 * 1886年 - 聖公会の司祭に按手される〔。 * 1887年(明治20年) - MA(Master of Arts)を取得。ケンブリッジ大学のリドレー・ホール神学校で、イングランド国教会の聖職について学んだ。 * 1888年(明治21年) - 1894年(明治27年)に、宣教師として日本を訪れ(神戸に滞在)、慶應義塾の教師となり、能海寛などに影響を与えた。イギリス時代から持っていた趣味として飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈を巡った。また、富士山にも登頂した。 * 1893年(明治26年) - 前穂高岳に登頂。このときの案内役で地元猟師の上條嘉門次との友情関係は、多く語り継がれている。またこの年の5月11日に、前宮ルートより恵那山に登頂した。 * 1896年(明治29年) - 山旅で見た情景と感慨を『MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS』(日本アルプスの登山と探検)としてイギリスで出版した。 * 1902年(明治35年)4月 - エミリー・フランシスと結婚〔夫人はロッククライマーでもあり、夫婦で富士山や戸隠山などに登った。 『知らざれるW・ウェストン』 田畑真一(著)、2001年9月、ISBN 4-784099042、p.284〕。 * 6月に夫人と共に2度目の来日し、1905年3月まで横浜市に滞在、聖アンデレ教会に司祭として奉職〔〔信州山小屋ネット 信濃毎日新聞社 〕。 * 1910年(明治43年)1月 - 日本山岳会の名誉会員となる〔日本山岳会の歩み 社団法人日本山岳会、2011年2月9日閲覧。〕。 * 1911年(明治44年) - 1915年(大正4年)に、再び横浜市に滞在、聖アンデレ教会にて奉職〔〔。 * 1940年(昭和15年)3月27日 - 死去。 ウェストンは、園芸雑誌に載っていた写真を見て、日本山岳誌の著者から写真を数枚譲って貰えるよう要請。譲り受けた内、志村烏嶺が官有林見廻り役丸山常吉の長男丸山広太郎・同姓の丸山吉十・強力(ごうりき)の清水市太郎を伴って1905年(明治38年)8月20日に白馬岳に登ったときに撮影した写真を、英国山岳会誌『アルパイン・ジャーナル』に寄せ、第23巻1906年5月号に掲載された。これが、日本の山岳写真が初めてヨーロッパに紹介されたものだという。〔『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』第5版 1974年(昭和49年) 編者 大町山岳博物館 発行所 信濃路 発売元 社団法人農村漁村文化協会 P1〕〔富山県 立山博物館 の平成10年度 春季特別企画展 によれば(2008年6月20日閲覧)、1906年2月号?〕 “Japanese Alps” という表現は、1881年(明治14年)初版刊行の『日本旅行記』(チェンバレンら編集)〔『男の隠れ家』 2010年9月号 “日本アルプス”を愛した男、W・ウェストン 田畑真一 p.17(『世界山岳百科事典』 岩間正夫編)〕に「信州と飛騨の境にある山脈 は『ジャパニーズアルプス』と呼ぶのにふさわしい」と記述があるのが最初であるとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウォルター・ウェストン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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