翻訳と辞書
Words near each other
・ ウォルター・ジョン・ストーセル
・ ウォルター・ジョージ
・ ウォルター・ジョーンズ
・ ウォルター・スウィンバーン
・ ウォルター・スコット
・ ウォルター・スコット (初代バクルー伯爵)
・ ウォルター・ストーセル
・ ウォルター・スミス
・ ウォルター・スミス (サッカー選手)
・ ウォルター・タバレス
ウォルター・ダムロッシュ
・ ウォルター・ツァップ
・ ウォルター・テュークスベリー
・ ウォルター・テヴィス
・ ウォルター・ディックス
・ ウォルター・ディーン・マイヤーズ
・ ウォルター・デイビス
・ ウォルター・デイヴィス
・ ウォルター・デイヴィス・ジュニア
・ ウォルター・デュークス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ウォルター・ダムロッシュ : ミニ英和和英辞書
ウォルター・ダムロッシュ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウォルター・ダムロッシュ : ウィキペディア日本語版
ウォルター・ダムロッシュ[ちょうおん]

ヴァルター・ヨハネス・ダムロシュWalter Johannes Damrosch, 1862年1月30日 - 1950年12月22日)はプロイセン出身のアメリカ指揮者作曲家リヒャルト・ヴァーグナー作品の指揮で知られる。ラジオで活躍した指揮者の草分けであり、米国においてクラシック音楽の普及に大きく貢献した。
== 経歴 ==
ブレスラウ(現ポーランドヴロツワフ)にて、ドイツ系ユダヤ人ユダヤ人)の家庭に生まれる。父レオポルトと兄フランクも指揮者である。幼時より父ならびにハンス・フォン・ビューローから音楽教育を受ける。1871年に一家で米国へ移住。1885年から1891年までメトロポリタン歌劇場の副指揮者。1885年から1898年までと1917年から1921年までニューヨークオラトリオ協会会長。1885年に父を喪うと、その後任として1928年までニューヨーク交響楽団を指揮。ヨーロッパ公演の途次、船中で偶然アンドリュー・カーネギーに出会ったとき、ニューヨークにコンサートホールを建設する夢を語る。このことがカーネギーの支援を引き出し、1891年カーネギー・ホールの設立となって結実した。1894年から1899年までダムロシュ歌劇団会長としてドイツ歌劇の紹介に尽力。第一次世界大戦中はフランスで過ごし、戦後1921年にはフォンテーヌブロー・アメリカ音楽院の設立に参加。1923年、自伝''My Musical Life''を上梓。ラジオで活躍する前は作曲家としても有名だった。ブリタニカ百科事典第11版は次のように記している。
:「ダムロシュ…ニューヨーク交響楽団の首席指揮者であり、さまざまな歌劇の指揮で知られる一方、独創的かつ詩的な作曲家でもあり、歌劇『緋文字』や劇的な歌曲『ダニー・ディーヴァー』といった作品がある」
ダムロシュは『シラノ・ド・ベルジュラック』(1913年)や『国なき男』(1937年)などの物語に基づき歌劇を作曲したが、これらの作品は今日ほとんど演奏される機会がなく、ただヴァーグナー作品の録音が広く知られているのみである。ダムロシュはデイヴィッド・サーノフ時代のNBCで音楽監督を務め、1928年から1942年までNBCの児童向けクラシック教育番組Music Appreciation Hour(音楽鑑賞の時間)の司会者を担当した(この番組は平日の昼間に放送されたため、生徒が授業時間に聴けるよう、学校の教師はNBCから教材とワークシートを与えられた)。ダムロシュが残した数少ない録音の一つはワシントンD.C.ナショナル交響楽団と共に収録したサン=サーンスの歌劇『ヘンリー八世』からのバレエ音楽の完全版であり、RCAレコードからリリースされている。ニューヨーク市で死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウォルター・ダムロッシュ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.