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ウォーキーン・アンドゥハー : ミニ英和和英辞書
ウォーキーン・アンドゥハー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウォーキーン・アンドゥハー : ウィキペディア日本語版
ウォーキーン・アンドゥハー[ちょうおん]

ウォーキーン・アンドゥハーJoaquín Andújar , 1952年12月21日 - 2015年9月8日 )はアメリカメジャーリーグで活躍した投手。右投両打(スイッチヒッター)。ドミニカ共和国出身。
== 人物・来歴 ==
に16歳でシンシナティ・レッズと契約したが、当時「Big Red Machine」と言われた最強チームではメジャーに昇格できず、チームがワールドシリーズ制覇を成し遂げた10月ヒューストン・アストロズに移籍。
4月8日にメジャー初登板。その年は28試合に登板(うち先発25)し、9勝10敗防御率3.60、完投9、完封4とまずまずの成績を残す。
11勝した1977年と12勝した1979年オールスター出場を果たすが、アストロズに在籍した5シーズンと少しで、2ケタ勝利はその2シーズンのみであった。広い本拠地アストロドームはピッチングには有利で、までのアストロズ在籍中の被本塁打は9イニング平均で0.44本(を含むと0.50本)であった。
1981年途中にセントルイス・カージナルスに移籍すると、素質が開花。移籍後は11試合の登板(うち先発8)で6勝をあげると、翌には15勝10敗、防御率2.47の好成績でチームの地区優勝に貢献。
ナ・リーグチャンピオンシップシリーズ(対アトランタ・ブレーブス、当時は5回戦制)では、2連勝後の第3戦に先発して勝利投手となり、リーグ優勝を決める。
ミルウォーキー・ブルワーズとのワールドシリーズ(当時ブルワーズはア・リーグ所属)でも、第3戦に先発して勝利投手となり、3勝3敗で迎えた最終第7戦でも先発して勝利投手となり、ワールドシリーズ制覇に貢献した。
は6勝16敗に終わるが、はリーグ最多の20勝をあげ、5年ぶりにオールスターにも出場。
また、ゴールドグラブ賞カムバック賞も獲得して、最高のシーズンとなった。
には、ピッツバーグ薬物裁判に関連してコカインの所持・服用が発覚し、出場停止処分を受ける(減俸処分を受けること、一定時間の社会奉仕活動を行うこと、抜き打ちの麻薬検査に応じ、再使用が認められた場合はより重い処分を受けるという条件をクリアし、処分は免除)。
それでも2年連続の20勝(21勝12敗)をあげて、チームの地区優勝・リーグ優勝に貢献。
カンザスシティ・ロイヤルズとのワールドシリーズでは、連勝後の第3戦に先発して敗戦投手となる。
チームは第4戦に勝って3勝1敗と王手をかけるが、第5戦に敗れ、第6戦も一塁塁審ドン・デンキンガーの「世紀の誤審」で敗れる。
第7戦はそのデンキンガーが球審となったが、序盤からロイヤルズ打線が爆発。
0-11と敗色濃厚となった5回にアンドゥハーが登板。
ストライクと思えた初球をデンキンガーが「ボール」と判定。
これに激昂した監督ホワイティ・ハーゾグが退場処分となり、アンドゥハーも2球目を投げた後に抗議して退場処分となる。
これによって開幕から10試合(のちに5試合に短縮)出場停止処分を受けた。
チームはアンドゥハーをオークランド・アスレチックスに放出。
1986年は12勝7敗に終わる。
しかも、DH制があって、投手が打席に立たなくても良いア・リーグ所属にもかかわらず行った打撃練習で負傷し、投球フォームを崩す。
は3勝に終わってアスレチックスを解雇され、1988年は古巣アストロズと契約するも2勝に終わり、解雇。
には先発投手が手薄なモントリオール・エクスポズがスプリング・トレーニングに招待したが、契約には至らず、そのまま現役を引退した。
アスレチックス時代に打撃練習をしていたように打撃は好きで、通算7本塁打。1979年には、この年チームでも全体でもわずか23本塁打しか出なかった広い本拠地アストロドームで特大ホームランを打つ。
引退後は祖国ドミニカで運送業を営む。
また、野球の振興にも一役買い、ハリケーンの際には被災者に多額の援助を行った。
2015年9月8日に糖尿病との合併症で死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウォーキーン・アンドゥハー」の詳細全文を読む




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