|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 侯 : [こう] 1. (n,n-suf) marquis 2. lord 3. daimyo
ボーフォート公爵()は、イングランド貴族の公爵位。 第3代サマセット公ヘンリー・ボーフォートの非嫡出子チャールズ・サマセットが1514年に叙された位を前身とする。5代ウスター伯の代の1642年にウスター侯爵位を与えられ、3代ウスター侯ヘンリー・サマセットの代の1682年にボーフォート公爵位を与えられた。 以来同公爵位はその子孫によって継承され、現在に至っている。2015年現在の当主は第11代ボーフォート公である。 == 歴史 == ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント(エドワード3世の四男)の子孫である第3代サマセット公ヘンリー・ボーフォートは1464年にヘクサムの戦いの敗北により処刑され、ついでその弟の第4代サマセット公エドムンド・ボーフォートも1471年のテュークスベリーの戦いの敗北で処刑され、サマセット公爵家の相続人は途絶えた〔森(1987) p.85-86〕。 しかし第3代サマセット公には非嫡出子チャールズ・サマセット(1460-1526)があった(彼のサマセット姓は父の爵位から取っている)。彼は非嫡出子であるためサマセット公爵位の相続権はなかったが、ヘンリー7世の又従兄弟にあたるという関係から1514年2月1日に新たにイングランド貴族爵位位を与えられた〔森(1987) p.85-86〕。 その子である2代ウスター伯(1496-1549)は、ウスター伯爵位継承前の1512年3月21日に母から第4代(イングランド貴族爵位)を継承している。 3代ウスター伯(1526-1589)は、初代サマセット公エドワード・シーモアや第4代ノーフォーク公トマス・ハワードが大逆罪に問われた裁判に関与し、とりわけサマセット公の裁判においては有罪を主張する最右翼だった(この件と後述するサマセット公爵位復権をめぐる両家の争いから現在に至るまでサマセット公爵家とボーフォート公爵家は仲が悪く、和解は成っていない)〔森(1987) p.87-88〕。 4代ウスター伯(1550-1628)は、ジェームズ1世からセヴァーン川の渡航料徴収権を獲得しており、この権利は20世紀まで続いた〔森(1987) p.88〕。 5代ウスター伯(1577-1646)は1642年3月2日にウスター侯爵位に叙せられた。 2代ウスター侯(1602-1667)は、1645年に「グラモーガン伯爵(Earl of Glamorgan)」と「モンマス州におけるカルデコート城の第12代ボーフォート男爵 (12th Baron Beaufort, of Caldecote Castle in the County of Monmouth)」に叙された(しかしこの2つの爵位が有効かどうかは議論がある)。彼はさらに1660年の王政復古の際、 先祖のサマセット公爵位の復権を受けることを狙ったが、シーモア家もサマセット公爵位の復権運動を行った。結局チャールズ2世はシーモア家にサマセット公爵位復権を認めている〔森(1987) p.88〕。 3代ウスター侯ヘンリー(1629-1700)は、1682年12月2日に先祖の姓に由来するボーフォート公爵位が与えられた。これがボーフォート公爵位の始まりとなった〔森(1987) p.88〕。彼は襲爵前には庶民院議員であり、王政復古の際に王党派として活躍した。以降もステュアート朝支持の王党派として行動し、トーリー党の代表的政治家となった。名誉革命の際にもジェームズ2世廃位・ウィリアム3世の即位に断固反対した〔森(1987) p.88-89〕。また彼はグロスタシャー・に広大な領地とを入手し、以降ここが公爵家の本拠となっている〔森(1987) p.88〕。 3代ボーフォート公(1707-1745)は、第3代スカダモー子爵の娘フランセスと結婚したが、彼女の浮気を理由に離婚。その離婚訴訟の中でフランセスから性的不能者扱いされたことに激怒し、6人の医師から自らが不能者ではないことを証明してもらう騒ぎになり、話題となった〔森(1987) p.91-92〕。 5代ボーフォート公ヘンリー(1744-1803)は1803年6月4日に爵位保有者不在(abeyant)になっていた位(イングランド貴族)を継承した。 7代ボーフォート公(1792-1853)は襲爵前にとの恋愛スキャンダルで話題となった〔森(1987) p.93-97〕。 8代ボーフォート公(1824-1899)は家芸の狩猟をはじめとして様々なスポーツに精通した。「バドミントン」の名で知られるスポーツも彼の代にバドミントンで発足したものである〔森(1987) p.103〕。 9代ボーフォート公(1847-1922)は、ボーフォート公爵領に鉄道を通過させたがっていた鉄道会社との交渉によって1903年に事実上公爵家専用となるバドミントン駅を作らせた(1968年に大幅な赤字に苦しむ英国国鉄が10代公爵と交渉した結果、同駅は廃止されている)〔森(1987) p.104-105〕。 10代ボーフォート公ヘンリー(1900-1984)は家芸の狩猟に力を入れ、ラトランド公爵家のビーヴァー・ハントと並ぶバドミントン・ハントの主催者として著名となった〔森(1987) p.106-108〕。20世紀の税金攻勢で貴族は所有地を半減させた家が多いが、ボーフォート公爵家は彼が財産を巧みに運用したおかげで5万2000エーカーの土地を手放さずにすんだばかりか、1000エーカーの土地を増加させている〔森(1987) p.104-105〕。第二次世界大戦中にはメアリー皇太后が親族のボーフォート公爵家のバドミントン・ハウスに疎開してきた。彼女は同屋敷で女主人も同然に過ごし、屋敷のつたを無断で切り取らせるなど好き勝手なことをして公爵の頭痛のタネとなった〔森(1987) p.108〕。 10代公は子供に恵まれず、8代公爵の次男の子孫にあたる(1928-)が11代公爵位を継承した〔森(1987) p.109〕。彼が現在の当主である。なおボトトート男爵とハーバート男爵位は11代公には受け継がれておらず、10代公の死とともに保有者不在(abeyant)となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボーフォート公爵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|