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ウズベク・ハン(Özbek Khan, غياث الدين محمد اوزبك Ghiyāth al-Dīn Muḥammad Ūzbak, ? - 1342年)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の第10代当主(ハン)(在位:1313年-1342年)である。ウズ・ベクとも書かれる。バトゥの玄孫に当たり、『集史』によるとモンケ・テムル・ハンの十男で末子であったと思われるトグリルチャが父である。ジョチ家の王族としてはベルケ以来最もイスラームに帰依したことで知られている人物で、同時代のアラビア語資料などではスルターン・ムハンマド・ウーズベク・ハーンなどと称されている。漢語資料では月即別と表記される。 == 出自 == バトゥの次子トクカンを曾祖父、第6代ハンのモンケ・テムルを祖父に持つ〔北川、杉山『大モンゴルの時代』、337頁〕。 父トグリルチャ(? - 1300年?)は長兄であるアルグイとともにトレ・ブカ、ゴンチェク兄弟によるクーデター事件に加担してトデ・モンケ・ハンを廃位させた中心人物である。ジョチ・ウルスは一時期トレ・ブカ、トグリルチャ、アルグイ、ゴンチェクの4者による共同統治が行われた〔川口「キプチャク草原とロシア」『中央ユーラシアの統合』、278頁〕。 『集史』「ジョチ・ハン紀」には、ハンに即位したトレ・ブカはノガイの計略によってトクタに殺害されたことが記録されており、この時トレ・ブカは生母の助言に従って弟のゴンチェクとノガイの幕営へ訪れていた。マムルーク朝の歴史家ヌワイリーによれば、この時にトグリルチャもトレ・ブカに同行しており、ノガイの命によりトレ・ブカや他の兄弟たちとともに逮捕された〔ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、398頁〕。ヌワイリーの情報によればノガイの命によりトレ・ブカや他の兄弟たちとともに捕縛されていたようだが、その後の消息が掴めないのでトレ・ブカとアルグイら他の兄弟たちとともに処刑されたと思われる。しかしながら、ティムール朝の歴史家ナタンズィーは彼を右翼・青帳(キョク・オルダ)の初代当主であるとしているため、あるいは助命されたのかも知れないが詳細は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウズベク・ハン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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