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ウラジミール・ホロヴィッツ : ミニ英和和英辞書
ウラジミール・ホロヴィッツ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウラジミール・ホロヴィッツ ( リダイレクト:ウラディミール・ホロヴィッツ ) : ウィキペディア日本語版
ウラディミール・ホロヴィッツ[ちょうおん]

ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツロシア語名ではヴラジーミル・サモイロヴィチ・ゴーロヴィツ()、ウクライナ語名ではヴォロディームィル・サミイロヴィチ・ホーロヴィツィ()。Horowitzという苗字そのものは、チェコの地名Hořovice(ホジョヴィツェ)のイディッシュ語名האָראָװיץ(Horovits)に由来する。〕、1903年10月1日 - 1989年11月5日)は、ウクライナ生まれのアメリカピアニストである。義父(妻の父)は名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニ''〔ロシア語名ではヴラジーミル・サモイロヴィチ・ゴーロヴィツ)、ウクライナ語名ではヴォロディームィル・サミイロヴィチ・ホーロヴィツィ()。Horowitzという苗字そのものは、チェコの地名Hořovice(ホジョヴィツェ)のイディッシュ語名האָראָװיץ(Horovits)に由来する。〕、1903年10月1日 - 1989年11月5日)は、ウクライナ生まれのアメリカピアニストである。義父(妻の父)は名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニ'')、ウクライナ語名ではヴォロディームィル・サミイロヴィチ・ホーロヴィツィ)。Horowitzという苗字そのものは、チェコの地名Hořovice(ホジョヴィツェ)のイディッシュ語名האָראָװיץ(Horovits)に由来する。〕、1903年10月1日 - 1989年11月5日)は、ウクライナ生まれのアメリカピアニストである。義父(妻の父)は名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニ'')。Horowitzという苗字そのものは、チェコの地名Hořovice(ホジョヴィツェ)のイディッシュ語名האָראָװיץ(Horovits)に由来する。〕、1903年10月1日 - 1989年11月5日)は、ウクライナ生まれのアメリカピアニストである。義父(妻の父)は名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニ
== 生涯 ==

ホロヴィッツ自身は、ウクライナのキエフで生まれたと主張していたが、隣のジトームィル州の小都市ベルディーチウで生まれたとする説が有力である。彼は1903年に生まれている。しかし、軍隊で彼の手が傷つくことを恐れたユダヤ系の父は、徴兵から逃れられるように生まれ年を1年遅い1904年として申告した。1904年を生まれ年とする文献が散在するが、権威筋は1903年が彼の正しい生まれ年であるとしている。
幼少の頃よりアマチュアピアニストであった母から手ほどきを受け、1912年キエフ音楽院に入学し、1919年に卒業。卒業時にはラフマニノフピアノ協奏曲第3番を演奏している。翌1920年には、初のピアノ リサイタルを開催、ソ連(現ロシア)において国内ツアーを開始し、しばしばヴァイオリニストのナタン・ミルシテインとも共演した。1926年には初の国外コンサートをベルリンで開催、このとき舞台名をロシア語名のGorovitzから西欧風のHorowitzに改めた〔プラスキン、p.12, 66。〕。続いて、パリロンドンで演奏を行った。
アメリカデビューは1928年。同じくアメリカデビューを飾ることになっていたトーマス・ビーチャムの指揮でチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番を演奏した。テンポの件で指揮者と意見が異なったまま演奏会が始まったが、聴衆の反応から第1楽章の途中で「このまま指揮者に従っていてはこの演奏会を失敗してしまう」と判断したホロヴィッツは次第にテンポを上げ、オーケストラをリードし始めた。最終楽章でのコーダは圧倒的な加速で弾ききり、同曲の演奏を終了した。演奏後割れんばかりの喝采を浴び、翌日の新聞では奇跡的なピアニストの登場が大々的に報じられた。
同年、アメリカでRCAと契約しレコーディングを開始した。世界恐慌の影響でRCAは企業成績が悪化し、契約下のアーティストのヨーロッパレコーディングをHMVに許可したため、最初期の録音の多くは現在EMIが保管している。リストロ短調ソナタ、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番など、当時としては非常に珍しいレパートリーを録音しており、音質の限界はあるが、今なおこれらの曲の最高の演奏と評価する声も多い。
1932年アルトゥーロ・トスカニーニベートーヴェンピアノ協奏曲第5番『皇帝』で初共演を果たした。後に、トスカニーニの娘ワンダと結婚している(ワンダの母語はイタリア語でホロヴィッツはロシア語であるため、当初家庭内ではフランス語で会話をしていた。アメリカ在住が長くなるにつれ、夫婦とも英語を使うようになった)。1940年、米国に居を構え、1944年には市民権を獲得した。
健康上の理由などからしばしば公の活動から退くことがあった。中でも、1953年のアメリカデビュー25周年記念リサイタル後間もなく突然すべてのリサイタルをキャンセルすると、それから1965年まで12年もの間コンサートを行わなかった。12年ぶりのリサイタルは「ヒストリック・リターン」として知られ、ホロヴィッツ健在を世に知らしめた。1960年代から1970年代前半にかけてCBSにて意欲的に録音も行っており、この時期のショパンシューマン、ラフマニノフ、スカルラッティなどのCDは、現在でも最高の名盤の一つに数えられている。
1970年代後半にRCAに戻った後は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番、ピアノソナタ第2番、シューマンの『グランド・ソナタ』、リストのロ短調ソナタなどのライブ録音を残している。70歳に達していたにもかかわらず、感興に乗った時の演奏は大きな感動を呼び起こすもので、時には「悪魔的」とさえ形容されることがあるが、その一方で好不調の波が大きくなったのもこの頃からで、年齢から来る技巧の衰えを隠すためか不自然な強弱やテンポ変化などがしばしば指摘された。1982年にRCAとの契約を終えた頃、再び健康問題に悩まされ、当時のかかりつけの医師から大量の薬を処方されるようになった。1983年の初来日時には「ひび割れた骨董」と評されたが、伝記によれば処方薬の影響がかなり大きかったとされている〔フランツ・モア(1994)『ピアノの巨匠たちとともに』中村菊子訳、音楽之友社、51ページ「私はその医者の名前も知らないが、その医者を全く信用していなかった。彼はホロヴィッツを薬づけにしたのだ。…コンサートの後、憔悴しきったホロヴィッツは物を言う気力もなく、椅子にうずくまってつぶやいた。『分かっている……間違った音だらけ……音をうんとはずした……自分で自分に何が起こっているか分からない』」(フランツ・モアはスタインウェイ社の巨匠技術師。25年間ホロヴィッツの専属調律師を務めた)。〕
〔デヴィッド・デュバル(1995)『ホロヴィッツの夕べ』小藤隆志訳、青土社、147ページ「新聞の否定的な批評が次第に浸透してきて、幸運にも彼はその主治医の影響から解放された。その精神科医はお払箱になった。この経験の苦痛は大きく、彼は後になっても…その医者のオフィスの前を通ることすら避けたほどである」。〕。
1985年、ホロヴィッツはドイツ・グラモフォンと専属契約を結び再びレコーディング活動を始めた。この頃には、極度の技巧を要する曲に固執することをやめ、最弱音から最強音まで完璧にコントロールされたデュナーミクと、独特のタッチとペダリングを使い分けることによって生み出される色彩豊かなトーンで聴衆を魅了し続けた。爆音を鳴らすピアニストのように言われることが少なくないが、実際には、最弱音が弱音でありながらホールの一番後ろでも美しく聴こえることにこそホロヴィッツの特徴がある。CDでは実際の演奏の魅力を伝えきれないと言われるゆえんである。1986年には、およそ60年ぶりの祖国となるモスクワ、次いでベルリンでもコンサートを開き、絶賛された。その模様は今日CD等で発売されている。初来日時の不調を気に病み続けていたホロヴィッツはこの年日本を再訪した。
指さばきの速さや難曲におけるミスタッチの少なさであれば、現代ではホロヴィッツ以上の技巧を持つピアニストは少なくない。しかしながら、一般の聴衆だけでなく実演に接したほとんどの評論家やピアニストも「ホロヴィッツの音は独特であった」と口を揃えて証言しており、ピアノを歌わせるという点で彼に比肩しうるピアニストを見出すことは困難である。
結果的に最後のレコーディングとなった小品集のレコーディング(「ザ・ラストレコーディング」として発売)を終えた4日後の1989年11月5日、自宅で食事中に急逝、ミラノにある義父トスカニーニの霊廟に共に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウラディミール・ホロヴィッツ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Vladimir Horowitz 」があります。




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