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ウラジーミル・マヤコフスキー : ミニ英和和英辞書
ウラジーミル・マヤコフスキー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウラジーミル・マヤコフスキー : ウィキペディア日本語版
ウラジーミル・マヤコフスキー[ちょうおん]

ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・マヤコフスキー(、1893年グレゴリオ暦7月19日ユリウス暦7月7日 - 1930年4月14日)は、20世紀初頭のロシア未来派ロシア・アヴァンギャルド)を代表するソ連詩人
== 生涯 ==
両親共にコサックの出で、グルジアで生まれる。1906年に父親が亡くなると、家族と共にモスクワに移住。そこでマルクス主義文学に傾倒するようになり、またロシア社会民主労働党に加わるようになる。その後ボリシェヴィキのメンバーとなるが、このため3回逮捕される。投獄中に詩作を始め、バイロンシェイクスピアトルストイアンドレイ・ベールイコンスタンチン・バリモントなどを読む。釈放後モスクワ絵画・彫刻・建築学校に入学。数年後に政治活動を問われて中退するものの、そこで後にロシア・アヴァンギャルドを担う芸術家たちと邂逅することになる。
1912年に処女詩集『社会の趣味への平手打ち』を出版、その中に所収された「夜()」「朝()」は政治的なメッセージを持ち学校を中退する原因となる。第一次世界大戦では兵役に志願するも断られ軍の自動車学校に勤務、十月革命を目撃し赤軍に参加した水兵を鼓舞する「左翼行進曲」を発表する。マヤコフスキー以前のロシア詩は、シラボ・トニック韻律法が盛んだったが、マヤコフスキーは別のリズムを作り出し、日常語や俗語、奇抜な言葉づかいを導入した。

革命後は風刺劇『奇怪なる喜劇』(1918年)で好評を博し、共産党のプロパガンダポスターの制作にも関与。評論や映画シナリオも書いた。
1923年芸術左翼戦線(レフ)を結成し、ソ連初期の芸術界をリードした。
私生活では1915年頃に知り合った女優の(詩人ルイ・アラゴンの妻エルザ・トリオレの姉、1978年自殺)に好意を抱き、深い関係となる〔詩人マヤコフスキーの愛人、リーリャ・ブリークが自殺(今日は何の日) - ロシアNOW(2012年8月4日)〕。リーリャはすでに劇作家のオーシブ・ブリークと結婚していたが、オーシブはマヤコフスキーの才能を買って、二人の関係を認めた。後にはオーシブを含めた3人での同棲を始める。奇異にも見えるこの同棲生活は、アレクサンドラ・コロンタイらのフェミニズムの主張が若い知識層を中心に浸透していた当時のソ連では、「時代に先がける新しいモラル」と解された〔亀山(2010年)、p.250〕。ただし、リーリャ・ブリークとの恋愛関係自体は1923年には終焉を迎えていたが、その後も終生にわたって(外遊時を除き)夫妻と私生活をともにした〔亀山(2010年)、p.131、143 - 147〕。
1925年、マヤコフスキーは西欧とアメリカ合衆国に約半年間の外遊をおこなった。ニューヨークではロシアからの亡命者だったモデルのエリー・ジョーンズと交遊し、ジョーンズは後に娘(エレーナ)を産んでいる〔インタビュー: 詩人マヤコフスキーの娘が語る父 - ロシアNOW(2013年7月10日)〕。また、1928年に外遊した折にはパリでタチアーナ・ヤーコヴレワという女性(やはり亡命ロシア人)と恋仲になり、真剣に結婚を考えるほどになったが、ヤーコヴレワがソ連への帰国に同意せず、実現しなかった〔亀山(2010年)、pp.149 - 150〕。帰国後の1929年5月、ブリーク夫妻から女優のヴェロニカ・ポロンスカヤを紹介され、亡くなるまで交友を持つことになる〔。
ブリーク夫妻にはチェーカーでの活動歴があり、後の研究で3人が同棲した居宅(一種の文学サロンとなっていた)には1927年ごろから多くのOGPU員が出没しており、その中にはマヤコフスキーの死後にその顕彰に一役買ったヤーコフ・アグラーノフ(OGPU秘密部門のトップ)も含まれていた〔亀山(2010年)、p.131、143 - 147〕。マヤコフスキー自身はブリーク夫妻のチェカー歴を知っていたとされ、また大粛清以前のソ連社会ではチェーカー員はむしろ尊敬の対象でもあった〔が、その一方で1929年以降は政府から批判の対象となった「当時のマヤコフスキーほど、秘密警察員によってあらゆる方向から包囲されていた詩人は他にだれもいない」と呼ばれる状況にも立ち至っていた〔亀山(1996年)、p.187〕。前記のエリー・ジョーンズは後年の回想で「マヤコフスキーはリーリャ・ブリークが自分の行動を逐一NKVDに報告しているのではないか、と恐れていました」という証言を残している〔。数度にわたる外遊が、ブリーク夫妻からの「逃走」だったのではないかという説を唱える研究者もいる〔。
1929年、マヤコフスキーはソ連共産党に近いロシア・プロレタリア作家協会(ラップ)から激しい批判を受けていた〔亀山(1996年)、p.186〕〔。
翌1930年2月、マヤコフスキーはラップへの加入を表明する〔。この時期のマヤコフスキーは精神状態をひどく悪化させていたと関係者の多くが回想している〔亀山(2010年)、pp.151 - 153〕。そのさなかの4月12日、ポロンスカヤとの感情の対立が原因となり、遺書を認めた〔。その日、ポロンスカヤと会って平静を取り戻したが、翌4月13日に面会を拒まれたことで再び不安定な精神状態となる〔。4月14日朝、自宅に連れてきたポロンスカヤが芝居があるからと退出しようとしたことに激高、彼女が驚いてこれから夫と劇場に説明した上でこの家に転居すると述べて辞去した直後、自室の中で銃弾により倒れている姿が発見され、そのまま死亡した〔亀山(2010年)、pp.154 - 155〕。死因は当局により自殺と発表された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウラジーミル・マヤコフスキー」の詳細全文を読む




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