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ウラジーミル(ウラジミルコ)・ヴォロダレヴィチ(、1104年 - 1153年〔В W. Dworzaczek, Genealogia, Warszawa 1959, tabl. 31〕)はヴォロダリ・ロスチスラヴィチの次男である。また、ウラジーミルは南西ルーシの諸公国(テレボヴリ公国、ペレムィシュリ公国、ズヴェニゴロド公国をガーリチ公国の元に統合し、ガーリチ・ロスチスラヴィチ家(ru)によるガーリチ公国支配を確立した。 ズヴェニゴロド公:1124年 - 1128年、ペレムィシュリ公:1128年 - 1141年、テレボヴリ公・ガーリチ公:1141年 - 1153年。 ==生涯== 1125年から1126年にかけて、ウラジーミルはハンガリー王国の支援と共に、兄のペレムィシュリ公ロスチスラフと争った。1128年にロスチスラフが死ぬと、ウラジーミルはペレムィシュリ公の座に就いた。ウラジーミルのズヴェニゴロド公位は甥のイヴァンに継承された。1140年、従兄弟のイヴァンと共に、イヴァンの義父であるキエフ大公フセヴォロドが、ヴォルィーニ公イジャスラフに対して行った戦争に参加した。従兄弟のイヴァンは1141年に死亡し、ウラジーミルはイヴァン領のテレボヴリとガーリチを自分の統治下に収めた。また、1144年に〔Бережков Н. Г. Хронология русского летописания 〕、甥のズヴェニゴロド公イヴァンがガーリチの一部のボヤーレ(貴族)の援助を受け、ウラジーミルの公位転覆を謀ったが、これを防ぎ、イヴァンを追放してその領土を併合した。ここに、南西ルーシの諸公国はガーリチを首都とした1つの政権として統合された。 これに前後して、ウラジーミルは自身の公国の独立のために数々の戦いに臨んでいる。すなわち、キエフ大公フセヴォロドとの戦い(1139年 - 1146年。なおフセヴォロドは1146年に死去。)、続くイジャスラフ(上記のイジャスラフ)との戦い(途中断絶をはさんで1146年 - 1154年)である。イジャスラフとの戦いは、1149年より息子のヤロスラフ(ru)の義父となったユーリー・ドルゴルーキーを援助した。しかし1152年には、ペレムィシュリ付近のサン川でハンガリー軍に敗れ、イジャスラフに、占領したヴォルィーニの都市を返すことで和平条約を求めた。 ウラジーミルは1153年に死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウラジーミル・ヴォロダレヴィチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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