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ウラディスラフ・トレチャク(トレチヤーク、Vladislav Aleksandrovich Tretiak、(, 1952年4月25日- )はソビエト連邦モスクワ出身のアイスホッケー選手。歴史上最も偉大なゴールテンダーの1人と考えられており、国際アイスホッケー連盟20世紀オールスターチームに選ばれている〔 〕。1989年にホッケーの殿堂入りを果たした。現在ロシアアイスホッケー連盟の会長を務めている。 アイスホッケー世界選手権では史上最多である10回の優勝経験を持っている。 == 経歴 == ウクライナのスームィで育った。彼の父親は軍のパイロット、母親はモスクワのフィールドホッケーチームにも所属する体育教師であり、厳格に育てられた〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.10〕。幼少の頃は兄に続いて水泳を行った。子供の頃から様々なスポーツを好んでおり、クロスカントリー、卓球、バレーボール、軽体操、バスケットボール、サッカー、スキーに加えて兄の通っていたディナモ・スポーツクラブで水泳も行っている。1963年5月1日のメーデーに、体操競技での際だった演技により、何千人もの子どもと一緒に赤の広場でスポーツの賞を取った〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.11-12〕。同年秋、陸軍中央スポーツクラブでのクラスを持っていた母親に連れて行ってもらい、アイスホッケーのユニフォームを着た少年にあこがれてアイスホッケーを始めた。当初はフォワードでプレーしたが、なかなかユニフォームがもらえなかったこと、誰もゴールテンダーになりたがらなかったことから、ゴールテンダーになることを望んだ。1967年の夏、少年チームに所属していた彼は、アナトリ・タラソフによって、マスターの練習に参加を認められた。この年、ノボシビルスクで行われた大会でソビエト最優秀少年ゴールテンダーに選ばれた〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.13-17〕。 1968年、ヨーロッパジュニア選手権に補欠として参加、チームは2位となった。翌1969年、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンで行われたヨーロッパジュニア選手権で優勝した。このシリーズ以降、タラソフによって本格的に育て上げられることとなり、リンクを全力滑走する最大酸素消費練習が課せられた。HC CSKAモスクワでは16歳でソビエト選手権のゴールを任された〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.15-17〕。 1969年秋、タラソフの推薦で全ソチームに加わった〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.67〕。同年12月3日のイズベスチヤ杯のフィンランド戦で国際試合初出場を果たし、以後1984年4月12日のスウェーデンカップでのチェコスロバキア戦まで国際試合に291回出場している〔。 1970年の世界選手権では、の控えであったが、スウェーデン戦の第2ピリオドに、コノバレンコが負傷退場したため交代出場し〔、その試合では2-4で敗れたが、最終戦で勝利し、チームは優勝した〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.42-43〕。 1971年、CSKAモスクワでプレーする彼は、ソビエトアイスホッケーリーグのオールスターファーストチームに選ばれた。この年、に選ばれた〔。1972年の札幌オリンピックの代表に19歳で選ばれた彼は金メダルを獲得した〔 〕。 1972年のサミット・シリーズにおけるプレーで彼はカナダのホッケーファンを驚かせた〔 〕。試合開始前にジャック・プラントの訪問を受け、フランク・マホブリッチ、フィル・エスポジト、イヴァン・クルノワイエ、ポール・ヘンダーソン、デニス・ハルの癖を教わった。トレチャクはプラントの訪問の真意をエスポジトらが滅多打ちにしようとしている若者に対してすまないと思ったのだろうと想像している〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.63〕。第1戦で開始わずか30秒でフィル・エスポジトにゴールを許し、さらにポール・ヘンダーソンにも得点をあげられ、0-2とリードされたが、この試合を7-3で勝利した。第4戦でも勝利し、カナダで開催された4試合で2勝1敗1分と勝ち越した。第4戦終了後、カナダのホッケーファンはカナダチームにブーイングを行った。モスクワに開催地を移した第5戦で勝利し、3勝1敗1分とシリーズ制覇に王手をかけたが〔 〕、第8戦で残り約30秒ほどにポール・ヘンダーソンに決勝ゴールを許し、3勝4敗1分でシリーズを終えた〔 〕。 1974年の世界選手権では、ソ連のゴールテンダーとして、ニコライ・パクコフに次いで史上2人目の最優秀ゴールテンダーに選ばれた〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.13-17〕。同年4月23日のコムソモール第17期大会の仕事に、リュドミラ・ツリシチェワ、イリーナ・ロドニナ、ワレリー・ボルゾフ、ウラジーミル・ワシーンらとともに出場した〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.2〕。同年5月には、体育専門学校を受験、教育学、生理学、心理学、社会科学などを学んだ〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.47〕。同年秋には、NHLの対抗リーグであるWHAとのサミット・シリーズに参加、このシリーズは4勝3分け1敗でソ連の勝利となった。なお、最終戦ではトレチャクは欠場している〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.69-89〕。 1975年12月から1976年1月のスーパーシリーズでは、ソ連のクラブチームとして初めて、NHLチームと対戦、ニューヨーク・レンジャースに7-3で勝利し、モントリオール・カナディアンズ戦ではシュート数で38対13と圧倒されながら、3-3で引き分けた。カナディアンズのゴールテンダー、ケン・ドライデンは、数年後に、6回出場したスタンレー・カップファイナルや1972年のサミット・シリーズよりも思い出に残る試合だと語った〔 〕。ボストン・ブルーインズに5-2で勝利した後、その年、2年連続でスタンレー・カップファイナルを制したフィラデルフィア・フライヤーズと対戦した。第1ピリオド11分過ぎ、0-0の場面で、攻撃の中心選手であるワレリー・ハルラモフがエド・ファンインプのひじ打ちを頭部に受けて脳震盪を起こし数分間意識を失ったまま横たわった(このプレーではペナルティはコールされていない。)。ソ連のコンスタンティン・ロクテフヘッドコーチは選手にリンクから引き揚げるよう命じたが、フライヤーズのオーナーがルールに従った試合をすると約束したため、試合は16分から17分の中断で続行された。試合はCSKAには試合遅延行為によるペナルティが課せられ、1人少ない状況で再開され、再開からわずか30秒にレグ・リーチに得点を奪われ、第1ピリオド終わりには、それまで9本のシュートを止めた相手、リック・マクリーシュにもゴールを許し、1-4で敗れた。この試合でCSKAの13本のシュートに対して、フライヤーズは49本のシュートを放った。フライヤーズのゲイリー・ドーンホーファーは、トレチャクが相手でなかったら倍の得点をあげていただろうと語っている。フライヤーズのこの日のプレーに対しては、ボビー・ハルは憤慨し、ニューヨーク・タイムズもホッケーにテロが勝ったと報道した〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.102-121〕。 1976年秋のカナダカップに先だって各国のゴールテンダー8人、フォワード16人で行われた1対1のトーナメントで優勝している〔ウラディスラフ・トレチャク 『V・トレチャク物語』 ベースボールマガジン社、1981年、pp.124-128〕。 1976年のインスブルックオリンピック、1984年のサラエボオリンピック、1981年のカナダカップでも金メダルを獲得した。また、アイスホッケー世界選手権では10回優勝、ヨーロッパ選手権でも9回優勝した。 1980年のレークプラシッドオリンピックでのアメリカ戦では、第1ピリオドの残り1秒にマーク・ジョンソンに同点となる2点目を入れられ、ビクトル・チーホノフヘッドコーチによって、ウラジーミル・ムイシュキンと交代させられ、チームはその後3-4で敗れた。100回試合をしたら99回はソ連が勝つであろうと見られていたこの試合は氷上の奇跡と呼ばれている。 トップレベルでプレーしており、まだ何年も活躍できると見られた1984年に32歳で現役を引退した。この背景には、チーホノフヘッドコーチによるトレーニングキャンプに試合前に参加し、より多くの時間を家族と取りたいという訴えを行ったが拒否されたためと言われている。 1983年のNHLドラフト7巡全体138位で、モントリオール・カナディアンズに指名された〔。トレチャクは移籍を望んだが、ソビエト政府の妨害でNHLでのプレーはならなかった。 1984年に労働赤旗勲章を受章した。1987年に自伝『Tretiak, The Legend』を出版した。1989年にホッケーの殿堂入りを果たした〔。ソ連の選手で選ばれたのは、彼が初めてであった。また、NHLでプレーしたことのない選手が選ばれるのも初めてであった。 1990年、シカゴ・ブラックホークスのマイク・キーナンによって、ゴールテンダーコーチに招かれた。それ以降、彼は20年に渡って、エド・ベルフォア〔 〕、ドミニク・ハシェク〔 〕、ジョセリン・ティボーらを育てた。キーナンは練習でのトレチャクの能力に感銘を受けて、38歳となっていた彼に現役のNHL選手としてプレーすることを提案した。当初背番号30番でプレーしていたベルフォアはブラックホークスを退団するまで、トレチャクにあやかって背番号20を着けてプレーした〔。他にもエフゲニー・ナボコフがトレチャクにあやかって背番号20でプレーした。 彼はカナダのトロントにゴールテンダーのためのスクールを作っており、ここからはホセ・セオドアやマーティン・ブロデューアが育った。2000年代初めには、ミネソタ州のデトロイトレイクでゴールテンダーのホッケーキャンプを開催した。 1997年、国際アイスホッケー連盟の殿堂入りを果たした〔。 2000年、彼はロシアの20世紀最高のアイスホッケー選手に選ばれた。同年、スポーツ・イラストレイテッドにより、ウェイン・グレツキー、ボビー・ハル、ゴーディ・ハウ、ボビー・オーアとともにグレーテストホッケーチームに選ばれた。 2003年12月、ドゥーマのサラトフ選挙区に統一ロシアから立候補して当選した。 2006年4月25日、ロシアアイスホッケー協会会長に96票中93票で選出された。残りの3票はいずれも棄権であった。同年、リドー ホールでカナダの総督より、カナダ総督褒章を受章した。 2007年1月29日、サミット・シリーズで対戦したカナダのゴールテンダー、ケン・ドライデンの背番号が永久欠番となるセレモニーが行われたとき、ゲストの1人として出席した。同年3月28日、その年の夏にカナダでサミットシリーズを35年ぶりに再度開催できないか交渉するためにオタワを訪問した。こうした交渉は、ミハイル・フラトコフロシア連邦首相も行い、同年9月にカナダとロシアのジュニアチームが対戦するイベントを開催することで決着がついた。 2010年のバンクーバーオリンピックではロシア代表チームのゼネラルマネージャーを務めた。 2014年のソチオリンピックでは、イリーナ・ロドニナとともに聖火リレーの最終走者を務めた〔 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウラディスラフ・トレチャク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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