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ウルグ・ベク : ウィキペディア日本語版
ウルグ・ベク

ウルグ・ベク( Mīrzā Muhammad Tāraghay bin Shāhrukh Uluġ Beg、漢籍:兀魯伯 1394年3月22日〔川口『ティムール帝国』、190頁〕 - 1449年10月27日〔前嶋「ウルグ・ベグ」『世界伝記大事典 世界編』2巻、246-2148頁〕〔ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、213頁〕)は、ティムール朝の第4代君主(在位: 1447年 - 1449年)。ティムールの四男シャー・ルフの長男。幼名はムハンマド・タラガイ()。
文人・学者の保護者となったウルグ・ベクは自身も優れた天文学者数学者文人であり〔植村「ウルグ・ベグ」『アジア歴史事典』1巻、350頁〕、統治者としての事績よりも学者としての事績を高く評価されている〔〔堀川「ウルグ・ベク」『中央ユーラシアを知る事典』、83,87頁〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、89頁〕。ウルグ・ベクによって統治されたサマルカンドでは王族や有力者による建設事業が盛んに行われ、町に集まった多くの学者が天文学、数学、暦学などの分野で成果を挙げた〔川口『ティムール帝国』、209-210頁〕。ウルグ・ベクの治世はトルキスタン文化の黄金期と呼ばれている〔。ウルグ・ベクの生誕600周年にあたる1994年は「ウルグ・ベクの年」に指定され、様々な式典が行われた〔。
== 生涯 ==
1394年にシャー・ルフとガウハル・シャード・アーガーの長男として、スルターニーヤで生まれる。シャー・ルフは息子を祖父の名前にちなんだムハンマド・タラガイと名付けたが、ティムールの意向によってテュルクの言葉で「偉大な指揮官」を意味する「ウルグ・ベク」に改名される〔。ペルシア語で「偉大な指揮官」を意味する「アミーリ・キャビール」「アミーリ・ボゾルグ」と称されていたティムールは、自分の称号と同じ意味を持つ「ウルグ・ベク」の名前を与えた孫に大きな期待をかけていたと考えられている〔。
幼少期のウルグ・ベクは、ティムール第一の正室であるサラーイ・ムルクの下で養育される。1404年にティムールによって、ウルグ・ベクと彼の従姉妹のエケ・ベグムの結婚が取り決められる。同年夏にサマルカンド郊外の牧草地で二人の結婚式が開かれ、式は2か月にわたるものになったといわれている〔川口『ティムール帝国』、194頁〕。ティムールの中国遠征にはウルグ・ベクも従軍しており〔、ティムール死後の内戦においてはシャー・ルフの部下のシャー・マリクとともにバルフ近郊のアンドゥフドとの統治を命じられた〔ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、200頁〕。13歳のときにホラーサーン地方の一部とカスピ海南岸のマーザンダラーンの総督に任じられる。1409年に王位継承戦を制したシャー・ルフがサマルカンドを制圧すると、ウルグ・ベクはサマルカンド知事に命じられる〔。これによりウルグ・ベクを統治者とする地方政権がサマルカンドに成立し、支配期間は40年近くに及んだ〔川口『ティムール帝国』、198,195頁〕。
1419年ジョチ・ウルスの王族バラクがウルグ・ベクに支援を求め、ウルグ・ベクはバラクに援助を与える〔川口『ティムール帝国』、211-212頁〕。また、ウルグ・ベクはワイスとの内争に敗れたモグーリスタン・ハン国シール・ムハンマドに援助を与え、バラクとシール・ムハンマドはそれぞれの国で君主の地位に就いた。ウルグ・ベクは2人を通した間接支配を計画していたが、1426年にバラクはシル川中流域のティムール帝国領を占領して敵対し、シール・ムハンマドもウルグ・ベクに従属の意思を見せなかった〔川口『ティムール帝国』、212-213頁〕。1425年に2月にウルグ・ベクはモグーリスタン遠征を実施し、同年5月にモグール軍に勝利を収めた〔川口『ティムール帝国』、213頁〕。遠征軍は天山山中のユルドゥズ草原(バインブルク草原)に到達し、帰国した〔。1427年にウルグ・ベクはシャー・ルフから派遣された援軍と共に北方のウズベク族の討伐に向かうが、敗北する。シャー・ルフは遠征の失敗に非常に落胆し、一時はウルグ・ベクからサマルカンドの統治権を没収しようと考えていたといわれている〔ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、209頁〕。ウズベク遠征の失敗以後、ウルグ・ベクは対外政策に消極的な姿勢をとるようになる〔久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、142頁〕。
1447年にシャー・ルフが没した後に各地で王族たちの反乱が発生し、ウルグ・ベクの母のガウハール・シャードは孫(ウルグ・ベクにとっての甥)のアラー・ウッダウラを擁立した。ウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに捕らえられた長子のアブドゥッラティーフを解放するため、彼と和約を結んだ〔デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』(三橋冨治男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1976年)、251頁〕。取り決めに従ってアブドゥッラティーフは解放されたが他の条件は履行されず、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラの戦争は再開される〔。1448年にウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに勝利してマシュハドを占領し、アブドゥッラティーフはヘラートの制圧に成功した。しかし、ウルグ・ベクの遠征中にサマルカンドがウズベクの襲撃を受け、町は破壊と略奪の被害を受ける。ウルグ・ベクはシャー・ルフが本拠地としていたヘラートからサマルカンドに首都機能を移転しようと考え、シャー・ルフの遺体をサマルカンドのグーリ・アミール廟に移して帰国する〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、87頁〕。
ウルグ・ベクは占星術に強い関心を持ち、占いで自分の息子に殺される結果が出た後にアブドゥッラティーフを遠ざけるようになり、次男のアブドゥルアズィーズを後継者にするように考え始めたといわれている〔ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、212頁〕。ヘラートがトルクメン人の襲撃を受けて破壊された時、バルフに駐屯していたアブドゥッラティーフはウルグ・ベクに対して反乱を起こす〔。1449年秋にアブドゥッラティーフの軍はサマルカンドに接近し、ウルグ・ベクはアブドゥルアズィーズとともに迎撃に出るが敗北する〔。ウルグ・ベクはアブドゥッラティーフにメッカ巡礼を願い出て許されるが、サマルカンドを発った後にアブドゥッラティーフが派遣した刺客によって殺害される〔〔。
1941年にウルグ・ベクの墓陵から、彼の頭蓋骨が発見された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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