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ウルバヌス8世(ウルバヌス8せい、, , 1568年4月5日 - 1644年7月29日)はバロック時代のローマ教皇(在位:1623年8月6日 - 1644年7月29日)。本名、マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ(Maffeo Vincenzo Barberini)。三十年戦争を通じてみせた聖職者というよりは政治家・統治者としての姿、学問と芸術の庇護、目にあまるネポティズム(親族登用主義)など、さまざまな意味で最後の中世的教皇であった。彼は文化・芸術の庇護者であり、教会改革を進め、教皇国家の領域を史上最大のものに拡大させたが、彼の治世で発生した巨額の負債はローマ教皇庁を弱体化させ、長期にわたってヨーロッパに対し政治的・軍事的影響力を維持していくことを困難なものにした。なお、彼の時代にガリレオ・ガリレイの裁判(第2次裁判)がおこなわれたことでも知られている。 == 生涯 == === 教皇選任まで === マッフェオはフィレンツェ(イタリア・トスカーナ州)の実力者で、カトリック教会に最も寄付を多くおこなっていた富裕な商人のひとつであったの出身である〔『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)pp.260-262〕〔マックスウェル・スチュアート(1999)pp.243-245〕。父はアントニオ・バルベリーニ、母はカミラ・バルバドーリであった。彼は、ローマの学院で学んだが、そこはイエズス会によって質の高い教育がほどこされていた〔。1589年にはピサ大学より法学博士号を受けている。 やがてローマ教皇庁の首席書記官だった伯父の引き立てで教皇庁で働くようになり、若くしてシクストゥス5世からグレゴリウス15世にいたる歴代教皇の側近として活躍した。クレメンス8世の時代に首席書記官になると、フランス国王アンリ4世の宮廷にむけた教皇大使としてフランス王国の首都パリへ赴いた。教皇大使は、ローマ教皇の代理として教会改革を推進し、一方では教皇権とヨーロッパ諸国とを仲介する要職である〔。1604年、クレメンス8世は彼をナザレの司教に叙任した。パレスティナに所在するナザレの町は当時オスマン帝国の支配下にあったため、形ばかりの役職にすぎなかったがイエス・キリストの育った地であり、名誉職にはちがいなかった。このころ、彼は、叔父の死によってその遺産を相続し、それにより彼は豪華なルネサンス様式の宮殿をローマ市内に購入している。 パウルス5世の下でもフランス宮廷付教皇大使に任じられ、1606年には38歳で枢機卿に昇進し、1608年にはスポレート(イタリア・ウンブリア州)の司教、1617年には教皇庁のボローニャ(イタリア・エミリア=ロマーニャ州)使節にも任命された〔今野(1988)p.383〕。 前任のグレゴリウス15世が熱病によって死去したのは1623年7月8日のことであった〔マックスウェル・スチュアート(1999)pp.241-242〕。 グレゴリウス15世死後の、マッフェオ・バルベリーニが教皇ウルバヌス8世として選出された教皇選挙会議は混乱をきわめた〔。枢機卿10人が熱病に倒れ、有力な候補者のひとりボルケーゼ卿は重病の床にあって立候補を断念せざるをえなくなった〔。さらに、24人いる枢機卿に対し、20枚の用紙しか配られないなど、投票手続きにも不備があった〔。しかし、最終的には、それまで順調に出世してきたマッフェオしかないという妥協的な雰囲気のなかで、55歳のマッフェオ・バルベリーニが必要な得票数を得て教皇の座についた〔。1623年8月6日のことである〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウルバヌス8世 (ローマ教皇)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pope Urban VIII 」があります。 スポンサード リンク
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