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ウルリケ・マリー・マインホフ(Ulrike Marie Meinhof、1934年10月7日 - 1976年5月9日)は、西ドイツのテロリスト、ジャーナリスト。ドイツ赤軍の創設者、指導者の一人。1960年代末から70年代初頭にかけてドイツ全土で、銀行強盗、誘拐、爆破テロを行ない、逮捕後、裁判中に獄死した。 == プロフィール == === ジャーナリスト === オルデンブルク出身。父母ともに美術史研究家であった。父がイェーナ市の図書館に務めることになり、同市へ両親と姉ととも引っ越す。1940年に父が病死したため、生活のため下宿人として母親の友人で社会主義者の女性大学教授と同居を始める。1945年からイェーナがソ連占領地域になったため同居女性とともに一家はオルデンブルクに移転する。1949年に教師として働いていた母も癌で亡くし、その同居女性がマインホフと姉の後見人となる。マールブルク大学、次いでミュンスター大学に学び、核兵器反対運動等で学生闘士として注目される。1959年にはドイツ共産党に加わる。 ピルや中絶などを取り扱う左翼的な雑誌「コンクレット」誌の記者となり、彼女の記事は評判となった。1962年~1964年には編集長を務めた。このころ、映画監督であるミヒャエル・ハネケと知り合っており、ハネケはウルリケ・マインホフのことを「とても好感が持て、温かい心を持った、政治に積極的に参加していて、そのうえユーモアに富んだ人間だった」と評している〔 邦訳は〕。 1961年、同誌の発行人クラウス・レールと結婚、翌年二児(女児の双子)をもうけたが、1967年に離婚。夫が養育権を得た。のちに、マインホフは、シンパに依頼し、1970年5月、娘たちを夫の元から奪い、フランスを経て、イタリアのエトナ山のふもとのヒッピー・コミューンにまず預け、そこからヨルダンのパレスチナ解放人民戦線のキャンプに合流させようとしたが、9月に2児はイタリアで国際刑事警察機構に保護された〔Ulrike Meinhof – a family of her own 〕〔Meine Eltern 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウルリケ・マインホフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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