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カール・エアンスト・ウルリッヒ・デメジエール(ド・メジエール)(, 1912年2月24日–2006年8月26日)は、ドイツ(西ドイツ)の軍人。1966年から1972年まで、第4代連邦軍総監を務めた。 == 経歴 == === ドイツ国防軍 === シュターデに生まれる。デメジエール家はフランスから逃れてきたユグノーの子孫である。父のいない家庭にハノーファーで育ち、1930年のアビトゥーア合格後に陸軍に入り、士官候補生として第5歩兵連隊に配属される。1933年に少尉に任官。1937年に第50歩兵連隊に転属。 1939年に第二次世界大戦が勃発すると、大尉・連隊副官としてポーランド侵攻に従軍。速成の参謀教育を受けた後、1940年にヴィルヘルム・フォン・レープ上級大将率いるC軍集団主席参謀に就任。1941年1月に第18歩兵師団兵站部長(次席参謀)に転じる。同師団はバルバロッサ作戦に従軍してレニングラード前面に迫ったが、ヴォルホフ川を挟んだ膠着戦に陥った。1942年1月に陸軍総司令部に転属となり、少佐として新師団の編成事務に従事。この間、のちに初代連邦軍総監となる作戦部長アドルフ・ホイジンガー少将などの知遇を得た。 1943年2月に再び東部戦線に転属となる。中佐に昇進したデメジエールはオリョールで新編成の第10装甲擲弾兵師団主任参謀に任命された。同師団は同年夏のクルスクの戦いに参加したが、その後の16ヶ月間は退却が続き、壊滅した。この間デメジエールは対戦車砲弾の破片で負傷した。1945年2月に再び陸軍総司令部に転属となり、作戦部主任参謀に就任した。その後短期間部長職を代行し、アドルフ・ヒトラーの前で情勢分析をおこなっている。5月8日にドイツが降伏すると、デメジエールは作戦部長としてクールラント・ポケットに赴いてクールラント軍集団司令官カール・ヒルペルト上級大将や参謀長フリードリヒ・フェルチュ中将に降伏の確認を行い、別れを告げた。その後国防軍最高司令部が避難していたフレンスブルクに戻り、5月23日にカール・デーニッツ元帥らが連合軍に逮捕されたのに伴い、自ら出頭してイギリス軍の捕虜になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウルリッヒ・デメジエール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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