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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ウーナ・オニール(Oona O'Neill、1925年5月14日-1991年9月27日)は、ノーベル文学賞を受賞したアメリカ合衆国の劇作家ユージン・オニールと、ユージンの二番目の妻であるとの間に生まれた娘で、のちにチャールズ・チャップリンの妻となった。チャップリンと結婚後は、ウーナ・オニール・チャップリン(Oona O'Neill Chaplin)、ウーナ・チャップリン(Oona Chaplin)〔#Oona (fag)〕、チャップリン夫人ウーナ(Oona, Lady Chaplin)とも表記される〔表記には統一性がないのか、例えば英文版ではページ名が "Oona O'Neill" 、人物用のテンプレートでは "Oona O'Neill Chaplin" 、本文書き出しが "Oona, Lady Chaplin" と、統一されていない。また、「インターネット・ムービー・データベース」での表記やコルシェ墓地の墓碑のように単に "Oona Chaplin" と書いた場合、ジェラルディンの娘で女優ののミドルネームを抜いた表記と同一となる。本項では、ページ名とテンプレートは英文版に準じた。〕。 チャップリンの結婚生活ではウーナとの結婚生活が最も成功したものとなり、1977年の自身の死まで連れ添うこととなった。チャップリンとしては三番目ないし四番目の妻にあたるが、「三番目ないし四番目」という記述については後述する。 ==生涯== ウーナ・オニールは1925年6月14日、イギリス領バミューダ諸島の、当時ユージンの邸宅だった「スピットヘッド」で生まれる。「スピットヘッド」は、もとは18世紀に私掠船船長として活躍したの邸宅で、ユージンがアグネスと離婚して女優のシャルロッタ・モンテレーと三度目の結婚をするまで過ごした。ユージンとアグネスの間の子供はウーナだけである〔#ロビンソン (下) p.225〕。両親の離婚後、ウーナはブールトン家に引き取られ、一年の大半は母アグネスとともにマンハッタンで過ごし、夏の間はニュージャージー州にある、ブールトン家所有のヴィクトリア朝様式の別邸で過ごした。 成長したウーナはヴァッサー大学への進学準備に入る一方で、やグロリア・ヴァンダービルトといった同世代の女優と親しくなり、このことは後年、キャロルの息子で小説家のが書き著した。また、アグネスの再婚相手がハリウッドに住んでいたので女優になる決心をしてアグネスとともにハリウッドに移り、ヴァッサー大学への進学は止めた〔。1942年春には、ウーナは17歳にわずかに届いていなかったにもかかわらず、「社交界にデビューした最も魅力的な女性」の候補の一人となる〔。実際、漫画家の、俳優のオーソン・ウェルズ、そして小説家のJ・D・サリンジャーといった面々がウーナに夢中になり、特にサリンジャーはウーナと交際を重ねて、軍務で距離が開いても文通を重ねていたが、ウーナとサリンジャーの交際は突然に終わり、サリンジャーを失望させた。チャップリンの登場である。 「輝くような美しさと人並み外れた魅力を持っている」、ウーナと初めて会った時のことを、チャップリンは自伝でこう記している。もっとも、チャップリンはともかく、その周囲ははじめのころはウーナに対して多少の警戒心を持っていた。当時、チャップリンはポール・ヴィンセント・キャロル原作の『』の映画化を企図しており、元は言えば、ウーナは『影と実体』のヒロイン候補の一人としてチャップリンと初めて会って、女優として契約を提示された〔#ロビンソン (下) p.226〕。ところがこの時期、『影と実体』のヒロイン候補の一人、というより事実上内定していたジョーン・バリーが奇行を繰り返して契約を解除されており〔#ロビンソン (下) pp.219-220〕、これが周囲がウーナに警戒心を抱く伏線となった〔。周囲の態度とは裏腹に、チャップリンは『影と実体』が完成したらウーナと結婚する気持ちであったが、1942年末には『影と実体』の製作は中止となった〔#ロビンソン (下) p.227〕。1943年に入ってからはウーナとアグネスはチャップリンの邸宅で過ごすようになり、またチャップリンの息子であるチャールズ・チャップリン・ジュニアやシドニー・チャップリンも同世代のウーナに興味を持ち始めたが、父親の恋敵ではなかった〔#ロビンソン (下) pp.226-228〕。 1943年5月、ジョーンが妊娠を発表し、チャップリンに対して子供を認知するよう訴訟を起こす〔#ロビンソン (下) p.228〕。訴訟そのものは2年におよび、検査でチャップリンの子ではないと判明したにもかかわらず、「共産主義者」チャップリンが扶助料を支払う羽目となる「滅茶苦茶な裁判」となるが〔〔#大野 (2005) p.92〕、そんなさ中にあってウーナは避難を勧める周囲に対してチャップリンのもとに留まることを決意し、1943年6月1日にはチャップリンがウーナとの結婚を最終的に決意する〔#ロビンソン (下) p.229〕。ウーナは結婚について、アグネスが賛成してもユージンは同意しないと予想していたが実際にその通りとなり、ユージンは激怒してウーナを勘当した〔〔#NYT, 19910928〕。ウーナが18歳になった翌日の1943年6月15日、チャップリンとウーナはサンタバーバラの郡庁舎で結婚手続きを済ませた〔#ロビンソン (下) pp.229-230〕。結婚後、チャップリンはジョーンとの法廷闘争と『殺人狂時代』として結実する新作の構想に明け暮れたが、その間の数少ない楽しみの一つがウーナに自分の旧作を見せることであり、笑って喜んでくれるウーナは「最高の観客」となった。〔#ロビンソン (下) p.237〕。 ジョーンとの法廷闘争、『殺人狂時代』の不入りとユナイテッド・アーティスツの経営危機、そして「共産主義者」のレッテル〔#ロビンソン (下) pp.247-260〕。第二次世界大戦終結をはさんだ1940年代のチャップリンにはいろいろな災難が降りかかったが、1944年7月31日に長女ジェラルディン、1946年3月7日に四男〔長男をミルドレッド・ハリスとの子で、1919年生、生後直死のノーマン・チャップリンに設定。〕、1949年3月28日に次女、そして1951年5月19日に三女が誕生し、私生活は成功と言えた〔#ロビンソン (下) p.233,260〕。1952年9月17日、チャップリンは『ライムライト』のワールド・プレミアをロンドンで行い、その際にはウーナ以下家族も連れてプレミア後は休暇を取る計画で客船「クイーン・エリザベス」 (''RMS Queen Elizabeth'') でニューヨークを出発し、イギリスに向かった〔#ロビンソン (下) pp.286-288〕。しかし2日後、司法長官は「共産主義者に接近した」との理由によりチャップリンのアメリカ再入国を事実上禁止する決定を行い、チャップリン一家は「財政的な見地から」スイスへの居住を決め、1953年1月にのという、もとはアメリカ大使の住居だった邸宅を購入して暮らし始め、ここが以降の終生の住処となった〔#ロビンソン (下) p.288, pp.298-299〕。 マクグラネリーの決定で再入国が事実上禁止されたのは終生イギリス国籍だったチャップリン本人のみで、ウーナや子供には適用されなかった。そのことを利用し、チャップリンはウーナに一つの仕事を与えた。チャップリンはアメリカに戻るつもりで財産や資料一切をアメリカに置いていたが再入国が事実上禁止になったことを受けて、アメリカ国籍も持っていたウーナが残務処理のためにアメリカにいったん戻ることとなった〔#大野 (2007) p.9〕〔#ロビンソン (下) p.297〕。1952年11月20日、ハリウッドに到着したウーナはチャップリン撮影所でチャップリン作品と、チャップリンの渡米前の資料や写真、財産を優先的に確保してチャップリンの下に送り届けるよう手配した〔〔。ウーナは11月17日にロンドンを発って残務処理を行い、11月27日に戻ってきたが、その間のチャップリンは、FBIがウーナの出国を阻止するのではないかと不安に思っていた〔#ロビンソン (下) pp.297-298〕。ウーナがロンドンに戻ったあと、撮影所スタッフが残務処理の続きを行ったが、その過程でいったんは「始末するもの」として扱われたのが、いわゆる「チャップリンのNGフィルム」であり、幾多の変遷を経て1983年製作のドキュメンタリー番組 "" などで世に出ることとなった〔#大野 (2007) pp.9-11〕。このあと、ウーナは1954年にアメリカ国籍を放棄してイギリス国籍のみとなり〔、1955年2月にスイスから休暇のためロンドンに到着した時点で、ウーナはイギリスのパスポートを所持していた〔#ロビンソン (下) pp.301-302〕。 マノワール・ド・バンには名だたる著名人が訪れ、チャップリンに敬意を払った〔#ロビンソン (下) p.321〕。そのチャップリンは、事あるごとにウーナへの感謝を忘れなかった〔#ロビンソン (下) p.313,315〕。1957年に『ニューヨークの王様』、1959年に再編集作品『チャップリン・レヴュー』を公開したほかは、悠々自適の生活の日々であった。1961年7月のチャップリン最後の来日では、チャップリンとウーナはマイケルを伴って来日し、京都などを訪問して都ホテルに宿泊した〔#大野 (2005) pp.107-108〕。1967年、母アグネスが危篤に陥り、ウーナはアグネスを見舞うためにニューヨークに戻った〔。1972年、第44回アカデミー賞でチャップリンにオスカーが授与され、チャップリンは19年ぶりにアメリカの土を踏むことになったが、その前にバミューダで一息ついた〔#ロビンソン (下) p.347〕。勘当されたとはいえ、ウーナはこの時点でもユージンから相続したバミューダの土地を所有していた〔。アカデミー賞授賞式当日には、中年になって風貌も年相応になっていたジャッキー・クーガンと初めて面会〔#ロビンソン (下) p.351〕。1975年に『巴里の女性』のためのサウンド付けの仕事を終えたチャップリンは、以降は体力の衰えもあってマノワール・ド・バンの外に出ることはほとんどなくなり、ウーナの手を握って何時間も黙ったまま過ごすことも多々あったほか、ウーナがチャップリンの介護を自分一人でやろうとしたこともあった〔#ロビンソン (下) pp.355-356〕。 1977年12月25日未明、チャップリンは就寝中に88年の生涯を終え、34年間一緒に過ごしたウーナは未亡人となった。ウーナはチャップリンの死を乗り越えようとアメリカに戻り、1981年には映画『』に出演するも、公式に女優として出演した唯一の映画は心の埋め合わせには成り得なかった〔。チャップリンに先立たれたウーナはもはや、一種の「世捨て人」のような存在となっていた〔。1991年9月27日、ウーナは膵癌のためコルシェ・スール・ヴヴェイのマノワール・ド・バンで亡くなった〔。66歳没。ウーナはコルシェ・スール・ヴヴェイのコルシェ墓地で、チャップリンとともに眠っている〔。 1992年公開のリチャード・アッテンボロー監督によるチャップリンの伝記映画『チャーリー』では、モイラ・ケリーがウーナを演じた〔チャップリンの初恋の女性であるヘティ・ケリーとの二役。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウーナ・オニール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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