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エアドメルス ( リダイレクト:カンタベリーのエアドメルス ) : ウィキペディア日本語版
カンタベリーのエアドメルス
カンタベリーのエアドメルス(、1060年頃 – 1126年頃〔J. C. Rubenstein, ‘Eadmer of Canterbury (b. c.1060, d. in or after 1126)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004 accessed 8 Feb 2011 〕)は、イングランド教会史家、神学者カンタベリーのアンセルムスの同時代に書かれた伝記『アンセルムス伝』の著者であり〔The standard work on Eadmer is R. W. Southern, ''Saint Anselm and His Biographer: A Study in Monastic Life and Thought'', Cambridge, 1963.〕、また『イギリスにおける新時代の歴史』でアンセルムスの公的な面を記述したことで知られる。エアドメルスの史書はカンタベリー大司教座のヨークに対する優位性を支持するために書かれたが、このことはアンセルムスの中心的な関心事でもあった〔C. Warren Hollister, ''Henry I'' (Yale English Monarchs) 2001:12f.〕。
==生涯==
エアドメルスはノルマン・コンクエスト(1066年)の直前にアングロ・サクソン人の家柄に生まれた。彼はベネディクト会修道院であったカンタベリーのクライスト・チャーチで修道士となった。そこで彼は当時ベック修道院長としてイングランドを訪れていたアンセルムスと親交を結んだ。この交際関係は1093年にアンセルムスがカンタベリー大司教となってから再開された。それ以降、エアドメルスはアンセルムスの弟子であるだけではなく友人となり、さらに教皇ウルバヌス2世によって秘書になることを定められた。
1120年にはケル・リークモネ司教に選出されたが、スコットランド人がカンタベリー大司教座の権威を認めないために彼は決して叙階を受けず、その後すぐに司教職を辞退した。彼の死は1126年かそれ以降とされる(しかし"Early Scottish Charters, Prior to 1153", Sir Archibald Campbell Lawrie (editor), Glasgow, 1910, Published by James Maclehose and Sons, Glasgow, 1905, p291 では1123年1月13日が彼の命日と述べられている)。エアドメルスは聖母の無原罪の御宿りの教義を深い洞察をもって唱道した最初の人物として評価される。彼はこれを著書『聖母マリアの御やどりについて』で一般的な慣習を擁護した際に唱えた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カンタベリーのエアドメルス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Eadmer 」があります。




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