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エアハルト・ミルヒ(、1892年3月30日 - 1972年1月15日)は、ドイツの軍人。最終階級はドイツ国防軍空軍元帥。騎士鉄十字章受章。 父がユダヤ人であると言われ、ヘルマン・ゲーリングにアーリア人認定されたという。ドイツ航空省次官を務め、ドイツ空軍の再建に関与した。ニュルンベルク裁判で終身禁固刑。 == 経歴 == ヴィルヘルムスハーフェン生まれ。1910年にアビトゥーアに合格後、東プロイセン歩兵砲第1連隊に配属され、1911年に少尉に任官。早くから飛行機に興味を持っていたが、第一次世界大戦勃発時は歩兵砲第6連隊第2予備大隊の副官だった。1915年7月から航空偵察兵としての教育を受けて航空部隊に配属され、第一級鉄十字章を受章。1916年晩秋に中尉に昇進し、クールラントの航空学校付副官となる〔当時の部下にのちの作家クルト・トゥホルスキーがいる。〕。第一次世界大戦末期に大尉に昇進し、第6戦闘航空団司令官となる。 終戦後、不正規軍である「航空志願兵第412部隊」の隊長となり、ドイツ東部でポーランドとの国境紛争に従軍。1920年まで「ケーニヒスベルク航空警察隊」の隊長を務める。ヴェルサイユ条約で航空警察が禁止されると、警察を辞めてダンツィヒで航空郵便業を開業する。1920年代半ばからは設立間もないルフトハンザドイツ航空に勤務。1933年にナチスが政権を獲得すると、ヘルマン・ゲーリングに請われてドイツ航空省次官に就任し、ドイツ空軍建設に従事した。 第二次世界大戦中の1940年7月、元帥に昇進。1941年からは航空機総監として空軍の装備開発・生産を統括する。エルンスト・ウーデットが自殺したのちは、技術開発を怠ったその失敗を修正するよう命じられ、ミルヒは主に空軍の分野で、アルベルト・シュペーアと共にドイツの軍需生産で中心的役割を果たした。1943年1月、スターリングラードでソ連軍に包囲されていたドイツ第6軍に空から補給するようヒトラーから直接総統命令を受ける。ミルヒは前線に赴いて対策を練ったが、搭乗員も機体も不足していた上、スターリングラードを航続距離内に収める適当な飛行場もなかったため命令を実行できなかった。 その頃がミルヒの出世の最高点であり、1943年に入ると連合軍の空襲が激化してドイツ本国上空の制空権も危うくなり、ミルヒはゲーリングの信頼を失った。1944年に入って連合軍のドイツ都市への大空襲が行われると、軍用機生産のほとんどを占めていた戦闘機部門が軍需省に所轄替えされてしまい、ミルヒの失脚は決定的となった。同年8月、軍用機生産は軍需省の管轄になり、ミルヒは名目上シュペーアの次官とされたが、実権を完全に失った。 戦後ニュルンベルク継続裁判で起訴されたが、ダッハウ強制収容所での人体実験を知っていたことは当時は明確にされなかったので、この点では無罪とされた。しかし兵器生産のため外国人に強制労働させたという罪状で、1947年4月に終身禁固刑の判決を受けた。1951年に獄中での精神不安により恩赦を受けて懲役15年に減刑され、1954年に出獄した。その後は1972年にヴッパータールで死去するまで、経営コンサルタントの仕事をしていたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エアハルト・ミルヒ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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