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エイシンワシントンとは日本の競走馬(外国産馬)である。中央競馬でCBC賞など重賞2勝を含む通算8勝をあげた。GI未勝利ながらもフラワーパークとのスプリンターズステークスでの1センチメートル差の死闘などの名勝負を繰り広げた生粋のスプリンターである。引退後は種牡馬として静内レックススタッドにて供用されていた。 ※馬齢は当時の表記(数え年)とする。 ==戦績== 1993年11月の中京芝1200mの新馬戦で溝橋秀吉を鞍上にデビュー。このレースをいきなりのレコードタイムで勝利し、次走を2戦目にしてGIの朝日杯3歳ステークスに進み、初戦を評価されて2番人気に推された。しかし後の三冠馬ナリタブライアンの6着と敗れる。このレース以降、全レースで熊沢重文が騎乗した〔1997年に出走する予定であった淀短距離ステークスでは、熊沢が同日に行われるフェブラリーステークスでストーンステッパーに騎乗するため、村本善之が騎乗する予定であったが、その村本が騎乗しての調教時に故障し、レースを回避、引退することとなった。内藤調教師は村本に、「(故障は)君の責任ではない。」と慰めたという。〕。 翌1994年は、1400m、1600mのレースに出走し共に差の無い2着となるが、1200mの萌黄賞では勝利し、スプリンターとしての適性をうかがわせた。この後重賞初制覇を狙ってアーリントンカップ〔この年は京都競馬場改修の関係で、中京1700mで開催。〕に出走するが、2着に敗れたうえに骨折も判明し、一時休養に入ることになる。 同年9月の朝日チャレンジカップ〔中京2000mでの開催。〕で復帰。このレースでは生涯唯一の2000mのレースだったが、やはり適性の違いからか5着に敗れ、この後からは完全に短距離路線に絞ったレースに出走していくことになる。そして次走のセントウルステークス〔中京1200mでの開催。〕で初重賞制覇を成し遂げた。次のスワンステークスでは3着に敗れはしたが、サクラバクシンオーとノースフライトという二頭のGIホースに次いでの3着ということで決して評価を落とすものではなかった。この後のシリウスステークス〔現在、同競走は阪神のダート1400mの重賞であるが、当時はおおむねジャパンC前日に行われ、京都芝1200mのオープン特別であった。この年は京都競馬場が改修中だったため中京芝1200mにて開催。〕を単勝1.0倍の人気に応えて2着に6馬身、1秒の差をつけて優勝し、GIスプリンターズステークスに出走、3番人気に推されるも、レースではサクラバクシンオーの4着に敗れた〔このレースはヒシクレバーをはじめ同型の逃げ馬が多数出走し、前半3F32秒4、1000m通過が55秒2というハイペースで、先行馬がサクラバクシンオーを除いて総崩れとなる中、4着に粘っている。〕。 明けて1995年は、初戦の洛陽ステークスで生涯初の1600m戦で勝利し、次走の淀短距離ステークスでは58.5kgの斤量を背負いながらもレコードタイムで勝利と、重賞レースでは無いものの充実した時期をむかえていた。しかし、この後またも骨折が判明し、療養を余儀なくされることになった。 同年の10月に復帰を果たしたのだが、以前のスピードが戻ってはおらず、復帰戦のセントウルステークス〔当時は阪神芝1400mのGIIIであったが、阪神大震災の影響で京都1400mで開催。〕で1番人気に支持されながら5着。その後も得意の1200mのレースでも精彩を欠く走りが続き、マイルチャンピオンシップ10着、スプリンターズステークス9着でこの年を終えた。 翌1996年はマイラーズカップから始動。3着に敗れたが、勝ち馬からハナ、クビの差であり、復調を予感させるレースであった。次走陽春ステークスでようやく勝ち星をあげ、復活かとも思われたが、シルクロードステークスでは12着に敗れた。この後今年からGIに昇格した高松宮杯を目指すもフレグモーネを発症して回避。次走阪急杯では14着と大敗し長い休養に入ることになった。 その後、この年のマイルチャンピオンシップで復帰。5ヶ月ぶりのレースでいきなりのGIレースではあったが、3着に入る好走をしている。翌週には連闘でCBC賞に出走。この春GI高松宮杯を勝ったフラワーパークを破り、レコードタイムで自身2度目の重賞制覇を成し遂げた。 そして第30回スプリンターズステークスでは、前走の走りは評価されつつも、連闘などの疲れを懸念されて3番人気にとどまった。レースはいつものように逃げて他馬を引っ張るエイシンワシントンを好位置からフラワーパークが追い詰めて2頭並んでゴールイン。結果は写真判定に持ち込まれ、異例の長時間の判定の結果、わずか1cmの差で2着という判定が下された。しかしこの長時間の判定はファンの記憶に残るものとなり、また3着のシンコウキング以下には5馬身の差をつけて1200m戦での強さは見せ付けた格好であった。 この後も現役続行する予定であったが、調教中にまたも骨折。それも今回は競走能力喪失とみられるほどの重症であり、安楽死処分も検討されたが種牡馬入りを目指して治療が行われた。患部をギプスで固定したため蹄葉炎の発症も危惧されたが、完治後にJRAの馬名登録を抹消され現役を引退、北海道のレックススタッドにて種牡馬入りした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エイシンワシントン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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