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アドリアン・アドニス(Adrian Adonis、本名:Keith A. Franke、1953年9月15日 - 1988年7月4日)は、1970年代から1980年代にかけて活躍したアメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州ニューヨークシティ出身。リングネームは英語圏では「エイドリアン」と発音するが、本項では日本における慣例的な表記を使用する。生年は1954年ともされる〔。 == 来歴 == かつてはアメリカンフットボールの選手として活躍していたが、1974年にジャイアント馬場やタイガー・ジェット・シンの師匠としても知られるフレッド・アトキンスに弟子入りしてプロレス入り。本名をもじったキース・フランクス(Keith Franks)を名乗り、金髪の若手ヒールとして売り出す。 若手時代は「賞金王」「ゴールデン・ボーイ」と呼ばれ、試合のたびに多額な賞金を賭けて戦い「俺を破った奴にはこの賞金をプレゼントしよう」と豪語していた。このスタイルで5年程戦ったが、1回も賞金を取られることはなかった(負けたことはなかった)という。 1977年はロサンゼルスのNWAハリウッド・レスリングを主戦場に活動。5月13日にザ・ハングマンからNWAアメリカス・ヘビー級王座を奪取し、以降もチャボ・ゲレロ、ビクター・リベラ、タンク・パットンらと抗争。7月22日にはロディ・パイパーとのコンビでNWAアメリカス・タッグ王座も獲得、ミル・マスカラスやアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦して日本でも注目を浴びた(当時、日本の専門誌では「ケース・フランクス」と表記されていた)〔『別冊ゴング 1977年7月号』P30「話題の星ケース・フランクス」(1977年、日本スポーツ出版社)〕。その後、アドリアン・アドニスの名前で太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングに登場〔、ロン・スターと組んで1979年4月3日にパイパー&キラー・ブルックスからNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を奪取している。 1979年の下期よりAWAに参戦し、ジェシー・ベンチュラとタッグチーム『イースト・ウエスト・コネクション(East-West Connection)』(アドニスがニューヨーク=東海岸出身、ベンチュラが自称カリフォルニア=西海岸出身)を結成。このヒール・コンビで大ブレイクを果たし、1980年7月20日にはAWA世界タッグ王座を獲得、翌1981年6月14日にハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)に敗れるまで、1年近くに渡ってタイトルを保持した。1981年下期にはベンチュラ&クラッシャー・ブラックウェルと共闘し、当時AWAで人気が急上昇していたハルク・ホーガンとも抗争を展開している。 1981年の末にベンチュラと共にWWF入り。両者ともフレッド・ブラッシーを共通のマネージャーに迎え、リック・マーテル&トニー・ガレアやチーフ・ジェイ・ストロンボー&ジュールズ・ストロンボーなどの人気チームと対戦したが、当時は同じヒール陣営のミスター・サイトー&ミスター・フジがWWFタッグ王座に就いていたこともあり、それぞれシングル・プレイヤーとして売り出された。アドニスは1982年1月18日と2月15日のMSG定期戦においてボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に連続挑戦し、初戦ではバックランドの流血によるレフェリー・ストップで勝利を収めている(タイトルは移動せず)。また、インターコンチネンタル王者のペドロ・モラレスにも再三挑戦した。 1982年7月にWWF経由で新日本プロレスに初来日し、以降も新日本の常連外国人としてIWGPリーグ戦などで活躍。ニューヨーク・ヤンキースの革ジャンが入場時のコスチュームだったため、日本ではアメリカの暴走族のイメージから暴走狼のニックネームが付けられた。1983年3月の来日時は、1シリーズだけだがボブ・オートン・ジュニアとタッグを組む。オートンとのチームは「(初代)マンハッタン・コンビ」と呼ばれ、繰り出した「ハイジャック攻撃」の数々は、後に維新軍団他がコピーして、タッグマッチにおける一大ブームとなる(スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの「超獣コンビ」の対抗馬とも目された〔『プロレスアルバム55 スーパー・タッグ Now!』P17(1985年、恒文社)〕)。 しかし、オートンが諸事情でしばらく来日できなくなったため、同年夏以降はディック・マードックが新パートナーとなる。チームリーダーではなくなったものの、傍若無人な暴走ファイトでアントニオ猪木と藤波辰巳の師弟コンビや維新軍団らと激闘を展開した。北部ニューヨーク出身のアドニスと南部テキサス出身のマードック、出身地も個性も対照的な2人のチームは、後にWWFで『ノース・サウス・コネクション(North-South Connection)』と呼ばれた。 同時期、アメリカではテキサス州サンアントニオ地区のサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングを主戦場に、ボブ・スウィータンとサウスウエスト・ヘビー級王座を巡る抗争を展開。1983年5月26日には "Undisputed World Heavyweight Champion" (真の世界王者)を決めるべく新設されたSCW世界ヘビー級王座の争奪トーナメントに出場、決勝で盟友のボブ・オートン・ジュニアを下して初代王者となり、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座の旧ベルトを手にした。 1984年からは全米侵攻を開始したWWFと再契約し、マードックとのノース・サウス・コネクションでWWF世界タッグ王座も獲得(1984年4月17日、ロッキー・ジョンソン&トニー・アトラスから奪取)したが、その後は薬物依存とストレス性過食症で極度の肥満に苦しむようになる。コンビ解散後はジミー・ハートをマネージャーにゲイボーイ・ギミックの "アドラブル" アドリアン・アドニス("Adorable" Adrian Adonis)に変身し、LA時代の盟友ロディ・パイパーと抗争。パイパーと仲間割れしたカウボーイ・ボブ・オートンをボディーガードに従え、初代マンハッタン・コンビの再結成も見られたが、アドニスのギミックに合わせオートンもピンク色のテンガロンハットを被るなど、かつての暴走チームの面影は微塵もなかった(また、当時のWWFにはベンチュラも在籍していたが、すでに引退していたためイースト・ウエスト・コネクションが復活することはなかった)。このギミックでは、ザ・フラワー・ショップ(The Flower Shop)なるインタビューコーナーのホストも担当している。 1987年の後半にWWFを退団してリハビリ施設に入所、以後は末期のAWAにてポール・E・デンジャラスリーをマネージャーに活動し、1988年5月には新日本プロレスへの久々の来日も実現。元のスタイルに復帰して再起を図っていた矢先の1988年7月4日、カナダで自動車事故に遭い〔、34歳で死去。なお、この時の事故では新日本プロレスの常連外国人の仲間入りをしていた双子のタッグチーム、ケリー・ツインズも死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アドリアン・アドニス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Adrian Adonis 」があります。 スポンサード リンク
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