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エイノ・パヌラ(Eino Viljami Panula、1911年3月10日 - 1912年4月15日)は、フィンランド生まれのタイタニック号乗客である〔Eino Viljam Panula Encyclopedia Titanica 2014年3月10日閲覧。〕。彼は生後13ヶ月のときに、母親や兄たちなどとともに父親の待つアメリカ合衆国へ移住するためにタイタニック号に乗船した〔〔Maija Emelia Abrahamintytar Panula Encyclopedia Titanica 2014年3月1日閲覧。〕。4月15日にタイタニック号は事故に遭い、エイノを含む一行全員が死亡した〔。エイノは2002年に行われた鑑定において、タイタニック号の犠牲者の1人である「身元不明児」(''The unknown child'')と同定されたが、2007年の再鑑定によって否定されている〔〔Titanic's Unknown Child Encyclopedia Titanica 2014年3月10日閲覧。〕〔Titanic baby given new identity BBC News 2007年8月1日、2014年3月10日閲覧。 〕。 == 生涯 == エイノ・パヌラは、1911年に当時ヴァーサ州に属していたイリハルマで誕生した〔〔。父ユハ(Juha Juhonpoika Panula)と母マリア(Maija Emelia Abrahamintytar Panula、1870年12月1日生、タイタニック号の事故当時41歳)は1892年2月14日に結婚し、8人の子をもうけたが、そのうち3人は幼いうちに亡くなっていた〔上から順に、長男ユーホ(Juho Eemeli Juhonpoikar Panula、1892年10月23日 - 1892年12月23日)、次男エルネスティ(Ernesti Arvid Juhonpoika Panula、1895年5月18日生、事故当時16歳)、三男ヤッコ(Jaakko Arnold Juhonpoika Panula、1897年2月8日生、事故当時15歳)、長女エンマ(Emma Iita Juhontytar Panula、1901年2月24日- 1910年4月8日溺死)、次女リティア(Lyytia Juhontytar Panula、1902年6月17日 - 1902年12月23日)、 四男ユハ(Juha Niilo Juhonpoika Panula、1904年9月1日生、事故当時7歳)、五男ウルホ(Urho Aaprhami (Abrahm) Juhonpoika Panula、1909年9月25日生、事故当時2歳)六男で末子のエイノである。〕〔。パヌラ夫妻は1893年に一度アメリカ合衆国に移民し、ミシガン州に定住した〔。ただし、パヌラ一家は1910年に1度フィンランドに帰国している〔。 後にパヌラ一家は、改めてアメリカ合衆国へ移民することを決めた。父ユハはペンシルベニア州ワシントン郡コールセンター(:en:Coal Center, Pennsylvania)に先発し、マリアと5人の子供たちはその後を追ってアメリカ合衆国に出発することになった〔。1912年2月、マリアは義弟に農場の権利を6,500マルッカ及び400マルッカの現金払いで売却した上で、全財産を持って子供たち5人の他に近所に住んでいたスザンナ・リーヒヴオリ(Susanna Juhantytär "Sanni" Riihivuori、1889年4月23日生、事故当時22歳)という若い女性を伴ってイリハルマを出発した〔エンサイクロペディア・タイタニカでは、スザンナはおそらくパヌラ家でメイドとして働くために同行したものと推定している。〕〔〔Susanna Juhantytär Riihivuori Encyclopedia Titanica 2014年3月10日閲覧。〕。 マリアはコールセンターまでの汽車代を含む船賃を163マルッカ支払い、一行は1912年4月10日にイングランドの港町サウサンプトンからタイタニック号に乗船した〔〔。ホワイト・スター・ラインでは、3等の船客を性別と年齢によって船首部分のキャビンと船尾部分のキャビンに区別して乗船させていた〔ロード、57-58頁。〕。3等の船客だった一行の中で、パヌラ家の年長の兄弟2人(16歳のエルネスティと15歳のヤッコ)は船首部分に乗船した〔〔〔Ernesti Arvid Panula Encyclopedia Titanica 2014年3月10日閲覧。〕 〔Jaako Arnold Panula Encyclopedia Titanica 2014年3月1日閲覧。〕。マリアとスザンナ、7歳のユハ、2歳のウルホ、生後13か月のエイノは船尾部分のキャビンに乗船した〔〔〔Juha Niilo Panula Encyclopedia Titanica 2014年3月1日閲覧。〕〔Urho Abraham Panula Encyclopedia Titanica 2014年3月10日閲覧。〕。 船尾のキャビンでは、マリアたちはアンナ・トゥルヤ(Anna Sofia Turja、1893年6月8日生、事故当時18歳)という若い女性と同室を割り当てられた〔Anna Sofia Turja Encyclopedia Titanica 2014年3月1日閲覧。〕。アンナは一行と同じフィンランドの出身で、オハイオ州アシュタビューラに住む彼女の異母姉のところへ働きに行く途中であった〔。 アンナの証言によると、4月14日の深夜にタイタニック号が氷山に衝突したとき、その衝撃で彼女は目を覚ました〔。最初アンナは、この衝撃はエンジンの不調によるものかと考えていた〔。やがて船首のキャビンからエルネスティかヤッコのどちらか1人が船尾まで駆けつけてきて、同室者を起こして暖かい服装と救命胴衣の着用を勧めた上で「起きて!そうしないとすぐに海の底だよ!」とせきたてた〔。アンナ自身はこの事態に怯えることはなかったが、他の同室者は何人か気を失っていたという〔。アンナは1度は甲板まで出たものの、キャビンに引き返してみると眠いとむずかって泣いている子供たちの着替えをさせているマリアの姿が目に入った〔。 事故の混乱の中で、マリアは幼い息子たちのうち数人を見失ってしまった〔。アンナが再びマリアを甲板で見かけたとき、彼女は泣き崩れていた〔。マリアは動揺しきっていて、「ここから生きて帰れないの」、「私たちみんな溺れ死ななければいけないの」と言い続けていた。それは、かつてパヌラ家の幼い娘エンマが10歳にもならないうちにフィンランドで溺れ死んだ過去の意味を含んでいた〔〔〔。アンナは15番の救命ボートで脱出することができた〔。しかし、パヌラ一家とスザンナはタイタニック号とともに行方不明となった〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エイノ・パヌラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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