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エウクラティデス1世(、生没年不詳)は、第6代グレコ・バクトリア王国の国王。シリア王アンティオコス4世の従兄弟〔ウイリアム・ウッドソープ・ターンの説。〕。 == 生涯 == 紀元前171年頃、エウクラティデスはアンティマコス1世からバクトリア王位を簒奪すると、グレコ・バクトリア王国の支配権を握るとともに、エウクラティディアという都市を建設した。 エウクラティデスは北のソグディア人を征伐した後、続いてインド征伐に乗り出すことにした。時にインドではデメトリオス2世がインド・グリーク朝の王位にあり、インド人およびアリアネ地方の諸族〔アラコシア人、ドランカェ人、アレイ人など。〕を支配下に入れていたので、エウクラティデスはまずヒンドゥークシュ山脈を越えてアリアネ地方の制圧に向かった。 紀元前164年頃、シリア王アンティオコス4世(在位:前175年 - 前164年)の死とエウクラティデスの留守に乗じて、パルティア軍がバクトリアに侵攻し、アスピオノス総督区とトゥリウァ総督区を奪い取った。その時の様子をポンペイウス・トログスは以下のように記している。 しかし、エウクラティデスは多くの戦争を大変な勇気で遂行し、それらの戦争で兵力を消耗したが、それでもインド王デメトリオス2世に攻囲された時、300人の兵士で6万人の敵を絶え間ない突撃で破った。そのようにして5カ月目に彼は攻囲から解放され、インドを自らの勢力下に入れた。 紀元前156年頃、エウクラティデスはインドから帰る途中、王国の共同統治者にしておいた息子〔たいていヘリオクレス1世に比定されるが、プラトン説やエウクラティデス2世説も存在する。〕によって殺された。息子はこの親殺しを隠そうとはせず、あたかも父親をではなく敵を殺したかのように、その血の中で戦車を操縦した。そして遺体を埋葬せずに、捨てておくように命じた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エウクラティデス1世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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