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エウロギウス(スペイン語San Eulogio de Córdoba 、ラテン語Sanctus Eulogius Cordobae;800年 - 859年3月11日)は、9世紀コルドバのキリスト教聖職者。カトリック教会・正教会で聖人。正教会では神品致命者〔〕。コルドバにおける殉教聖人のひとり。後ウマイヤ朝君主アブド・アッラフマーン2世からその子ムハンマド1世の治世に活躍した。 アンダルス時代における反イスラーム主義でも知られる。彼は850年から859年にかけて、キリスト教徒たちがイスラーム信仰を批判し死刑に処された一連の事件に共感を覚え、彼らの行動を殉教としてその殉教記を記した。彼自身も859年にイスラームを公然と批判したことで逮捕され処刑された。〔当時アンダルスのモサラベはズィンミーとしてシャリーアに基づく一定の権利を保障されていたが、ムハンマドやコーランを批判した場合死刑に処される掟があった〕 ==来歴== エウロギウスの親友アルヴァルスの著書『エウロギウス伝(ラテン語;Vita Eulogii)』によれば、エウロギウスはコルドバの貴族の家系に生まれた。彼は純血のヒスパノ=ローマ人であり、アラブ人の血は一滴も混じっていなかったという。 エウロギウスは両親によって聖ソイロ教会の修道院に預けられ、そこでスペラインディオに師事して哲学、神学、ラテン語〔ラテン語は当時の西方キリスト教世界の公用語であった〕、アラビア語〔イスラームに対する研究や官吏との折衝の必要性のため、アンダルスではアラビア語がキリスト教聖職者の間で広く学ばれた〕を学び、修行に励んだ。アルヴァルスとの友情はこのときから始まったと記されている。二人の師であったスペラインディオは三位一体の公式教義とそれに反する異端〔『イエスは最高の預言者であるが神そのものではない。』とするアリウス派などの学説。イスラームにおける三位一体否定にこのようなキリスト教非主流派の見解が強い影響を与えていることは既に当時のキリスト教知識人の間では常識となっていた〕に関しての研究を行っており、そのためイスラームに対しても当時のアンダルスでもっとも厳しい見方をとる〔三位一体説にかかわる批判以外にも、イスラームにおける天国の描写に関する批判などがエウロギウスによる引用の形で残存している〕キリスト教知識人の一人だった。エウロギウスやアルヴァルスの反イスラーム主義はこの時代に培われたとされている。〔『コルドバの殉教者たち-イスラム・スペインのキリスト教徒』K.B.ウルフ著、林邦夫訳、p76~78〕 青年となったエウロギウスは助祭、続いて司祭に昇格し、殉教事件の直前には聖職者教育の教師となった。彼はスペイン北部でコルドバ=アミール国に抵抗するキリスト教徒の支配地域に2回赴き、その地の聖職者との交流を深めるとともに、イスラームに対する敵対心を増大させた。彼が「殉教」事件に遭遇したのは、2回目の旅行を終えてコルドバに戻ってきた直後のことであった。〔『コルドバの殉教者たち-イスラム・スペインのキリスト教徒』K.B.ウルフ著、林邦夫訳、p79~81〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エウロギウス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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