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エゴン・シーレ(Egon Schiele、1890年6月12日 - 1918年10月31日)は、オーストリアの画家。エーゴン・シーレとも。 当時盛んであったグスタフ・クリムトらのウィーン分離派を初めとして象徴派、表現主義に影響を受けつつも、独自の絵画を追求した。強烈な個性を持つ画風に加え、意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を多数製作し、見る者に直感的な衝撃を与えるという作風から表現主義の分野に置いて論じられる場合が多い。 == 生涯 == === 生い立ち === オーストリア・ハンガリーの首都ウィーン近郊にあるに生まれる。父アドルフ・シーレは帝国鉄道の鉄道員として働き、後には駅長を務めている。母マリア・ソウクップ・シーレはクルマウ・アン・デア・モルダウ市出身のチェコ系オーストリア人であった。シーレ家は北ドイツ出身でルター派教会牧師、官吏、軍人、医者を輩出した中産階級の家系である。鉄道技師だった祖父ルートヴィヒ・シーレ(1817-1862)がオーストリア北西部鉄道の敷設に関わり、初代監督官に就任したことによってオーストリア=ハンガリー帝国に住むようになった。ローマ・カトリック教会が圧倒的なオーストリアにあって、少数派のルター派オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派に属していた〔ヴォルフガンク・ゲオルグ・フィッシャー『エゴン・シーレ』 タッシェン・ジャパン〈コンパクト・ミディシリーズ〉、2005年、7頁。〕。なお、オーストリアでは19世紀後半以降、芸術、文学、建築等で新教徒の活躍が目立ち、彼もその集団の一人でもあった〔http://magazine.orf.at/alpha/programm/2008/081217_ori.htm〕。 幼少期にシーレは初等教育を受ける為にクロスターノイブルク市へ移住、そこで美術担当の教員から早熟な才能を認められている。教師からの推薦を受けたことはシーレにとって大きな後押しとなった。15歳の時に父が梅毒で病没すると叔父レオポルドに引き取られた。叔父はシーレが学業に励まないことに悩んだが、同時に芸術への強い興味に理解を示すなどシーレに愛情を持って接している。翌年にシーレはギムナジウムではなく職人としての訓練を受ける許可を得て、16歳の時にグスタフ・クリムトと同じに学んだ。ただ異なったのはクリムトがそのまま職工として開業したのに対し、よりアカデミック色が強く純粋芸術を追求する場であったウィーン美術アカデミーへ更に進学した点であった。 ちなみにシーレが同アカデミーに入学した1906年の翌年と翌々年には、アドルフ・ヒトラーが同アカデミーを受験して不合格になっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エゴン・シーレ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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