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エジプト属州 : ミニ英和和英辞書
エジプト属州[す, しゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [す, しゅう]
 (n) sandbank

エジプト属州 ( リダイレクト:アエギュプトゥス ) : ウィキペディア日本語版
アエギュプトゥス[す, しゅう]

アエギュプトゥス()は、古代のエジプトローマ帝国属州だった時代の地名で、「エジプト(Egypt)」の語源でもある。属州の領域は現在のエジプトとほとんど同じだが、シナイ半島は含まない。西側はキュレナイカ属州と隣り合い、東側はアラビア属州と隣り合っていた。元はプトレマイオス朝が支配していたが、紀元前30年に、クレオパトラ7世マルクス・アントニウスをオクタウィアヌス(のちの初代ローマ皇帝アウグストゥス)が破ったことにより、ローマの支配下に入った。またローマ皇帝の私領として、皇帝個人の収入源となった。この地域は、ローマ帝国にとって重要な穀物の供給地となった。7世紀イスラム帝国の支配下に入った。
== ローマ帝国による統治 ==

初代ローマ皇帝アウグストゥスは、アエギュプトゥスをローマ皇帝の私領とした。最後の王朝であるプトレマイオス朝も含め、古代エジプトの歴代の王ファラオは神として扱われ、人間による統治は受け入れられなかった。そのため、他の属州のように「人」である一総督が支配する事を許さない状況であった。アウグストゥスの養父たるガイウス・ユリウス・カエサルは、死後にローマ元老院の決定により神格化がなされており、言わばアウグストゥスは神の子であり、この地を統治する資格を有していたとされる。ただし、ローマ帝国屈指の穀倉地帯を私領とする事で、ローマ皇帝に多大な収益をもたらしたのは事実である。
アエギュプトゥスには、初代総督としてガイウス・コルネリウス・ガッルス紀元前30年-紀元前26年:任期、以下同様)が赴任した。彼は軍を率いてエジプト南部を支配下におき、 プトレマイオス朝が放棄した南部国境地帯をローマの保護国とした。その次の総督はガイウス・アエリウス・ガッルス(紀元前26年-紀元前24年)で、彼は結果的には失敗したが、アラビア半島のアラビア・フェリクス(現イエメン)まで遠征した。3人目の総督はガイウス・ペトロニウス(紀元前24年-紀元前21年)で、彼は農耕を盛んにする灌漑のために、荒れて使われなくなっていた運河を復興した。エジプトの紅海沿岸の領域までローマ支配下に入るのは、皇帝クラウディウスの時代(41年-54年)である。
皇帝ネロの時代(54年-68年)に:en:Tax resistanceとして始まったユダヤ戦争66年-74年)では、70年エルサレム攻囲戦 (70年)エルサレムが破壊され、アレクサンドリアは世界中のユダヤ教とユダヤ文化にとって中心地となっていた。その後1世紀にわたり、アエギュプトゥスはよく繁栄した。ただし、ギリシア人ユダヤ人との間でしばしば宗教を理由とする争いが起こり、特にアレクサンドリアで激しい暴動があった。
皇帝トラヤヌス98年-117年)の時代には、115年にと呼ばれるユダヤ人の反乱が起こった。この結果、ユダヤ人の中心地であるアレクサンドリアは制圧され、彼らに与えられていた様々な恩典は失われることになった。皇帝ハドリアヌス117年-138年)はアエギュプトゥスを2回訪れ、寵愛していたが溺死してしまったアンティノウスアンティノオス)にちなんだ新都市アンティノオポリスを建設した。ハドリアヌス帝の時代以降、グレコ・ローマン様式の建物が国中に建設されるようになった。
ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス161年-180年)は、増税したことにより現地エジプト人の反乱を招いた。172年に率いると呼ばれる反乱が起こり、数年で制圧されたものの、地域経済に大きな打撃となり、これを契機としてアエギュプトゥスの経済が衰退を始めた。さらに、ローマ軍を率いて反乱を制圧したガイウス・アウィディウス・カッシウスは、この後に自らローマ皇帝を僭称した。アエギュプトゥスとシュリア属州の兵達はいったんはカッシウスの帝位を承認したが、マルクス・アウレリウス帝の軍隊が近くまで迫ると、カッシウスの位を奪い彼を殺した。マルクス・アウレリウスは残った兵達を処罰しなかったので、この後は平穏が戻った。これに似た反乱は193年にも勃発した。この年に皇帝になったペルティナクス帝がすぐに暗殺されると、シュリア属州のペスケンニウス・ニゲルが皇帝に名乗りを上げ、アエギュプトゥスの軍もそれを支持した。しかし、ニゲルの皇位簒奪は失敗して、セプティミウス・セウェルスが皇帝となった。
ローマ皇帝カラカラ211年-217年)は、他の属州と同様、自由民である全てのエジプト人にローマ市民権を認めた。ただし、これは税収を増やすことが目的で、帝国の財政は歳入を増やしても破綻に向かっていた。3世紀の間には、相次いで軍事的・政治的な反乱が起こった。総督ルキウス・ムッシウス・アエミリアヌス(en)は、260年にはガッリエヌス帝に叛旗を翻したマクリアヌス親子を支援し、ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥスが殺害された翌261年には自らが皇帝に名乗りを上げたが、部下の裏切りにより殺害された。
272年にはパルミラ王国ゼノビアが一時的にはアエギュプトゥスも征服してローマに迫ったが、ローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスの遠征軍に敗れた。
アエギュプトゥスの軍人の決起で成功したものもあり、プロブスはローマ皇帝となった(232年-282年)。ドミティウス・ドミティアヌス:en:Domitius Domitianus)もローマ皇帝を名乗ったが、ディオクレティアヌス帝にアレクサンドリアを奪われて敗れた(296年)。ディオクレティアヌス帝は属州全体を再編した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アエギュプトゥス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Egypt (Roman province) 」があります。




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