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エジプト第11王朝(紀元前2133年、又は2134年頃 - 紀元前1991年頃)は、古代エジプトの王朝。第1中間期と呼ばれる分裂の時代に、上エジプト(ナイル川上流)南部の都市テーベ(古代エジプト語:ネウト〔マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメン(アメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではノと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。〕、現在のルクソール)の州侯が自立して建てた政権を指す。この王朝によってエジプト古王国時代の終焉以来分裂していたエジプトが再び統一されることになった。第11王朝による統一以後の時代はエジプト中王国時代と呼ばれる。 == 歴史 == === ヘラクレオポリス政権との戦い === 上エジプト第4県〔以下に登場する上エジプトの県についての大まかな位置についてはこちらを参照。〕にあるテーベは古王国時代には取るに足らない一村落に過ぎなかったが、従来の首都ヘルモンティス(古代エジプト語:イウニ)からテーベに上エジプト第4県の首都が移されたことから大発展を遂げていた。テーベ侯としてはの存在が知られており、彼の時代に独立勢力となったとする場合もあるが、完全な自立勢力として登場するのは彼の息子アンテフ1世の時代である。メンチュヘテプ1世の跡を継いでテーベ侯となったアンテフ1世は、第9王朝の末期か、第10王朝の初め頃に王を名乗り第11王朝が始まった。マネト〔紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。〕の記録では第11王朝は第10王朝の後に連続的に成立した政権であるかのようにリスト化されている〔ただし、マネトは第11王朝の個々の王名を記録していない。〕が、実際には第11王朝と第10王朝は同時代に並立して存在した政権であった。第10王朝は上エジプト第20県の首都(古代エジプト語:〔後のヘラクレオポリスという名は、この都市で祭られていた地方神ヘリシェフをギリシア人がハルサフェスと呼び、名前の類似等からヘラクレスと同一視したことによって付けられたギリシア語名である。〕)に成立した政権である。 第11王朝は成立以来このネンネス(ヘラクレオポリス)の政権と国境を巡って激しく争った。その領域はテーベ周辺のごく狭い領域に過ぎなかったが、やがて第8県の都市アビュドスの北方、上エジプト第8県と第9県の間が北の国境線となった。続くアンテフ2世の時代には一時上エジプト第10県にまで侵攻したが、第10王朝の王ケティ3世の反撃にあいアビュドスも失陥してしまったために停戦し、両国の国境を元のアビュドス北方に置くことで合意した。第10王朝はこの後下エジプト(ナイルデルタ地方)の平定に力を注ぐようになったため、両国の間には一時的に安定した関係が築かれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エジプト第11王朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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