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エジプト第17王朝(紀元前1663年頃 - 紀元前1570年)は、第2中間期時代の古代エジプト王朝。いわゆるヒクソス(ヘカ・カスウト 異国の支配者達の意)が下エジプト(ナイル川三角州地帯)に第15王朝を建てて支配権を握っていた時代に、テーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール〔紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメン(アメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではノと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。〕)を中心とした上エジプト(ナイル川上流)で支配権を持った。当初は第15王朝の権威に対し臣従していたが、やがて異民族追放を大義名分として第15王朝と戦いこれを滅ぼしてエジプトを統一した。これを以って第2中間期の終焉、新王国時代の始まりとされる。また慣習的にエジプト統一を成し遂げたイアフメス1世からは第18王朝とされているが、第17王朝と第18王朝は完全に連続した政権である。 ''ヒクソスに関する諸問題についてはヒクソス、第15王朝の政治史についてはエジプト第15王朝を参照。'' == 歴史 == マネト〔紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。〕の記録によれば第17王朝には43人のヒクソス王と43人のテーベ(ディオスポリス)王が含まれるとされている。個々の王名が採録されていないが、ヒクソス王とされている付加的な王は第16王朝の諸王と同じく、第15王朝に従う多数の小集団の支配者達であったと考えられる。テーベ王とされている人々は上エジプトの一連の地方的支配者であった。 第17王朝と第15王朝(ヒクソス)の関係を示す同時代史料がほとんど残っていないため、両者の関係がどのようなものであったのかについては従来あまりよくわかっていなかった。古くは下エジプトからヌビア北部にいたる地域がヒクソスの直接支配の下にあったという仮定もなされた。というのは、ヌビアのケルマで発見された第15王朝の印章が、ケルマに駐在したヒクソスの官吏が使用したものであるという判断によるものである。しかし、その後の新史料の発見(カーメス王の碑文)によってこれが単にクシュ侯に当てられた手紙の封印に過ぎないことがわかったため、今日では第15王朝(ヒクソス)が全エジプトを直接支配下に置いていたという見解はほぼ捨てられている。 しかし、初期の第17王朝の支配者達は第15王朝の権威に対して正面から挑戦することは避けており、諸侯の1つとしてこれの覇権を承認していた。これを証明するのが『アポフィスとセケンエンラーの争い』と呼ばれる後代のテキストである。これによれば第15王朝のアポフィス(アペピ)王が第17王朝に使者を送り、テーベの神殿で飼われているカバの鳴き声が煩くて王の眠りを妨げるので殺すようにという要求を出してきた。およそ単なる言いがかりとしか考えられないこの要求に対し、第17王朝のセケンエンラー王は親しく使者を迎え入れ、二心無きことを誓ったのである〔参考文献「ヒュクソスのエジプト支配」『西洋古代史論集1』の記述による。〕。 後代の政治的なテキスト(第17王朝を解放者として、ヒクソスを侵略者として描く)の記述であるため、史実性がどの程度見出せるかという点には問題があるが、この説話から第17王朝の形成以来、セケンエンラー(在位:前1574年頃)の治世初期にいたるまでヒクソスに対し臣従の礼をとっていたと推定される。しかし、このような要求はセケンエンラーをしてヒクソスに対する戦いを決意させたとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エジプト第17王朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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