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エジプト第1王朝(えじぷとだいいちおうちょう、紀元前3100年頃? - 紀元前2890年頃?)は、古代エジプトにおいて史上初めて上エジプト(ナイル川上流域)と下エジプト(ナイル川下流域)を統一したとされている王朝。統一勢力であったかどうかは別として、第1王朝以前の王朝の存在も発見されているため、第1という番号は便宜的かつ慣習的なものである。この王朝の出現を以てエジプト初期王朝時代の始まりとされる。 == 歴史 == ヘロドトス〔紀元前5世紀のギリシアの歴史家。〕やマネト〔紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。〕の記録によれば、エジプト第1王朝の初代王はメネスであった。彼は上下エジプトを統合した後、その境界近くに新しい王都イネブ・ヘジ(後のメンフィス〔イネブ・ヘジは白い壁という意味で、メンフィスの古い名である。メンフィスと言う名は、近郊のサッカラにあるペピ1世のメンネフェル・ペピと呼ばれたピラミッドの呼び名が都市の名前(メンネフェル)として用いられたことから普及した名である。〕)を建設したという。ヘロドトスもマネトも、エジプト第1王朝よりも2000年以上も後の人物であり、その記録がそのまま史実を伝えるものとすることはできないが、後代のエジプト古代王朝の人々にメネス王から始まるエジプトの歴史が伝わっていたことは確実である。 アビュドス遺跡で発見された古代エジプトの王名を記した封泥によって得られるエジプト第1王朝の王は初代ナルメル王、2代アハ王、3代ジェル王と続き、メネス王の名は見られない。メネス王を実在の人物として、ナルメル王かアハ王、または他のいずれかの王と同一人物とする数々の研究があるが、現在までのところ定説はない。これらの中では特にメネス=ナルメル説とメネス=アハ説が有力である。メネス王をナルメル王に比定する説の根拠は、ナルメル王の化粧板(ナルメルのパレット)と呼ばれる同時代の出土物に、上エジプトの王ナルメルが下エジプトを征服し、その王位を得たという記録がある事であり、上下エジプトの統一や「最初の王」という点を重視するならばメネス王はナルメル王の事になる。一方でメネス王をアハ王に比定する説の根拠は、アハ王のホルス名(王名)と並んでネブティ名(二女神名)「メン」が記された象牙製ラベルが発見されていることと、エジプト第1王朝の大規模墳墓建設が始まるのが確認されるのがアハ王の治世であることである。類似した名前やメンフィスの建設に象徴される建築事業を重視するならば、メネス王はアハ王であるということになる。両者を包括する説として、メネス王の伝説はエジプト第1王朝やエジプト第2王朝の複数の王の業績が集約されて生まれたものであるとする説もある。 比較的同時代に近い史料に基づいたエジプト第1王朝の歴史としては、上エジプトにあった王国の王であったナルメルは、下エジプトを征服してエジプトを統一し、リビアやパレスチナ方面〔パレスチナへの遠征ははっきりした記録が残っているわけではない。ナルメル王の化粧板にアジア人との戦いの様が描かれていることや、アジア(パレスチナ)に由来すると思われる図像があることから推定されるものであり、否定視する意見もある。〕にまで遠征を行って武威を示した。ナルメルの跡を継いだアハ王はナイル川を上流に遡って第1瀑布近辺までを、第3代目のジェル王は更にナイル川を遡って第2瀑布近辺までを征服し、またシナイ半島を征服した。ジェル王によってシナイ半島にある銅山が王家の独占とされ、王権が著しく強化された。第4代目ジェト王の治世は記録が無くわかっていない。第5代デン王の治世には上下エジプトを統べる王としての王権理念が確立された。彼の時代に官僚制の整備や徴税制度も確立された。デン王以後の第1王朝の記録は乏しく、第1王朝がどのようにして滅亡したのかはわかっていない。おそらく紀元前29世紀初頭頃、またはその前後の時代にエジプトの支配権はエジプト第2王朝に移った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エジプト第1王朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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