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エステ家()は、中世以降のイタリアの有力な貴族の家系。学芸を重んじ、保護・発展に寄与したこと、美術の保護政策を実践したことでも知られる。 起源はリグーリア地方やミラノを支配していたオベルテンギ家の支流であり、ゲルマン系ランゴバルド族の貴族であった。家名の由来は11世紀の当主アルベルト・アッツォ2世がエステ辺境伯の地位を獲得し、子孫がその世襲に成功したことに由来する。 1196年にエステ辺境伯領はフェラーラ侯爵領に改められ、エステ家当主の称号もフェラーラ侯となった。1240年にフェラーラのシニョリーア(僭主国家体制)を確立。およそ400年にわたって統治した。1289年にはオビッツォ2世がモデナ侯・レッジョ侯を兼ねた。1452年にはモデナとレッジョが、1471年にはフェラーラが侯爵領から公爵領に昇格した。 一族の出身でマントヴァのゴンザーガ家に嫁いだイザベラ・デステ(イザベッラ・デステ)はルネサンス期の最も有名な女性のひとりである。 イザベラの弟アルフォンソ1世は、ローマ教皇アレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジアと結婚。当時のフェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の1つで、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まった。イタリア戦争の際、アルフォンソ1世は神聖ローマ帝国と結んだことから、教皇クレメンス7世に一時幽閉されるが、これがローマ略奪(1527年)の引き金になった。 アルフォンソ1世とルクレツィアの孫アルフォンソ2世の時代にも宮廷文化が栄えた。フェラーラはマニエリスム美術の中心の1つとなった。 アルフォンソ2世には子がおらず、1597年に彼が亡くなった後は従弟のチェーザレが継いだが、継承者が一時不在となった混乱に乗じて、翌1598年、フェラーラは教皇クレメンス8世に奪取され、以後はモデナとレッジョのみを領有した。1796年にナポレオン・ボナパルトにより公国は征服されチスパダーナ共和国に編入された。1803年に最後の当主エルコレ3世の死去で男系が絶え、1814年に再興された公国はエルコレ3世の1人娘マリーア・ベアトリーチェとその夫フェルディナントの息子フランチェスコ4世(オーストリア=エステ家)が公爵となった。 現在、フェラーラのエステ城が一般に公開されている。ティヴォリのエステ家別荘は、2001年に世界遺産に登録された。 また、ドイツの大諸侯の1つヴェルフ家は、1055年にアルベルト・アッツォ2世と古ヴェルフ家のクニグンデとの間の子であるヴェルフがヴェルフ家を継いでヴェルフ=エステ家を興したことに始まり、男系でエステ家に連なる。イタリアのエステ家はアルベルト・アッツォ2世と2番目の妻メーヌ伯女との間のフォルコ1世が継承した。 == 系図 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エステ家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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