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エセン・ハーン(モンゴル語:Эсэн тайш хаан 、英語:Esen taishi、?〔『蒙古源流』では丁亥(1407年)の生まれとしている。〕 - 1454年)は、15世紀中頃のオイラトの首長。はじめエセン・タイシ〔タイシ (Tayisi) は、中国語の「太師」に由来するモンゴル語の称号である。北元期のモンゴルでは、チンギス・カンの血を引かない貴族のうちの最有力者が称した。〕と称し、漢文史料では也先と表記される。 オイラトの最大版図を築き、1449年には明に侵攻して土木堡(現在の河北省張家口市懐来県)の地で明軍を破り、皇帝・英宗正統帝を捕虜とした(土木の変)。その後、非チンギス・カン裔のモンゴル貴族として初めてハーンを称したが、部下の反乱によって滅ぼされた。 ==生涯== === 生い立ち === エセンは、オイラトの首長(脱歓)の子である。オイラトは13世紀以来モンゴル高原の西部に盤踞し、チンギス・カンの子孫と代々通婚関係を結んだモンゴル高原の有力部族で、15世紀に北元が衰えると急速に成長した。 当時のモンゴル高原ではチンギス統原理により、チンギス・カンの男系子孫でない者はハーンとなることができなかったので、トゴンは1430年代に明の保護下にあったチンギス・カンの末裔トクトア・ブハ(脱脱不花)を自領に迎え入れてハーンに立て、自らはタイシを称した。1434年、トクトア・ブハとトゴン・タイシは、東モンゴルの有力者アルクタイをオルドスに破り、モンゴル高原の大半を支配下に置いた。 トゴン・タイシ存命中のエセンの活動はほとんど史料に見られず、明らかではない。1439年、トゴン・タイシが死ぬと、エセンはタイシの称号を継承し、引き続きトクトア・ブハをハーンに立てた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エセン・ハーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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