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この項目では、日本とエチオピアの関係について述べる。エチオピアと日本の関係の特徴として、西洋列強によるアフリカ分割が進む19世紀末の1896年の第一次エチオピア戦争に於ける「アドワの戦い」でエチオピア帝国がイタリア王国を破ったことと、20世紀初頭の1905年の日露戦争に於いて大日本帝国がロシア帝国を破ったことを並べて、双方が共に有色人種が白色人種を破ったことを共通点として視る人種論的な議論が、アドワの戦いに際しては南アフリカ、アメリカ、カリブ地域で白人に抑圧されていた黒人の間に〔古川(2007a:297)〕、日露戦争については中国、ベトナム、インド、トルコ、エジプトなどのアジアの民衆レベルに〔岡倉、北川(1993:31)〕それぞれ存在して汎アジア主義と汎アフリカ主義を盛り上げたことが挙げられる〔古川(2007a:296-297)〕。また、当時のエチオピア帝国と日本の皇室は世界最古級の皇室であり、縁談もあったことから君主間の連帯感もあったとされる。 == 前史 == 江戸時代の1675年にアルメニア人商人、ホジャ・ムラードが「エチオピア諸王の大使」としてバタビア(現在のインドネシア)から天皇にシマウマを二頭贈り、日本からは銀と衣類が返礼に贈られた〔古川(2007a:293)〕>。 その後、西川如見は1708年に全五巻から成る『増補華夷通商考』を刊行し、第五巻でエチオピアのことを、アラビア語で混血を意味する言葉に由来する「アビシニイ」として記述、当時の清国で布教していたカトリック教会のイタリア人宣教師の知見を引き継ぎ、初めて日本にアフリカの地誌を紹介したが、そこで日本に紹介された「アビシニイ」観は当時のヨーロッパ人の黒人蔑視を引き継いだものであった 〔古川(2007a:293-294)〕。 明治維新後、福沢諭吉は1869年に刊行された『世界国尽』にて「あびしにあ」に「阿彌志仁屋」なる漢字を当てて紹介している〔古川(2007a:295)〕。 第一次エチオピア戦争に際し、日本政府は関心を持ち、明治29年(1896年)4月5日付の外交文書で、大山巌陸軍大臣が陸奥宗光外務大臣に対してエチオピアを「征伐」するイタリア軍に日本陸軍を従軍視察させる案を述べ、この外交文書は日本の外交文書に於ける「アビシニヤ」という言葉の初出となったものの、この案はイタリア側から断られている〔古川(2007a:297-298)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本とエチオピアの関係」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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