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アッティラ〔これはゴート族による呼称で、「父親(atta)」の縮小詞である。(シュライバー(2001)、p.63)〕(、406年? - 453年)は、フン族とその諸侯の王。中世ドイツの「ニーベルンゲンの歌」などの叙事詩ではエツェル()の名で登場する。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の「大王」を自称した。またローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは「神の災い」や「神の鞭」と恐れられた。 出自についてはフン族全体と同じく詳しくは分からないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属すると思われる。 434年に伯父である王ルーアの死後、兄ブレダとともにフン族の王となる。445年頃に共同統治者のブレダが死ぬと単独の王となった。アッティラはブルグンド族などのゲルマン系諸族を征服し、パンノニアに本拠を置いて東ローマ帝国への侵入を繰り返して、短期間でライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る大帝国を築き上げた。451年、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実にガリアへ侵入したがカタラウヌムで、ローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマ=西ゴート連合軍と戦い敗れて撤退した。翌452年にイタリア半島へ侵攻して、ミラノ、アクイレイアなどの諸都市を陥れたが、教皇レオ1世の説得によって撤退した。 アッティラの治世下で帝国は最盛期を迎えるが、453年自らの婚礼を祝う酒宴の席で急死する。死後、アッティラの息子たちの間で内紛が起き、フン帝国は瓦解した。 == 生涯 == ===出自=== フン族はヴォルガ川以東から現れ、370年にヨーロッパへ移住して強大な帝国を建設したユーラシア遊牧民の集団である。彼らの主な軍事技術は騎馬弓射であった。その出自とフン語については数世紀にわたり論争になっている。 フン族は強力な騎馬部隊を率いる蛮族としてその名を轟かせており、東進の過程でアラン族やゴート族の王国を滅ぼして住民を虐殺し、生き残った者たちも配下の兵士として従えるなど、多くの部族を従える立場にあった。4世紀末から度々東西ローマの領内に入り込んでは、撤退する代償として莫大な賠償金を獲得していた。410年頃にフン族はドナウ川中流域を制圧し、433年に西ローマ帝国の将軍アエティウスとの取り引きによってパンノニアとイリュリクムの一部の支配権を認められた。 アッティラは406年頃、フン族の王ルーアの弟ムンズクの息子として生まれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アッティラ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Attila 」があります。 スポンサード リンク
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