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エディ・ヨスト(Edward Frederick Joseph Yost、1926年10月13日 - 2012年10月16日)は、主に1950年代に活躍したアメリカ合衆国の元プロ野球選手。ポジションは三塁手。ニューヨーク・ブルックリン生まれ。右投げ右打ち。1950年代のワシントン・セネタースの三塁手。"The Walking Man"(ウォーキング・マン)のニックネームが付くほど四球をよく選んだ。 == 来歴・人物 == 第二次世界大戦中の1944年にワシントン・セネタースと契約、選手不足の折、ヨストは17歳でメジャーリーグにデビューし7試合に出場した。セネタースの三塁のレギュラーとなったのは1947年からのことで、1957年までの11年の間セネタースの正三塁手を務めた。この間、1949年8月30日から1955年5月11日まで、829試合連続出場の記録を作る。三塁守備ではリーグ最多刺殺を8度記録、リーグ最多併殺数を2度、最高守備率を3度記録するなど守りの面で活躍した。 打撃面では1951年にリーグ最多の36二塁打を記録したことがあるが、決して打率がよかったり長打が多かった打者ではなかった。しかし1950年シーズンに141もの四球(リーグ最多)を記録してからは、ほぼ毎年のように100四球以上を記録し、リーグ最多四球を通算で6度記録した。特に1956年に記録した四球数151は、当時ベーブ・ルース(170)とテッド・ウィリアムズ(162,156)に次ぐ多さだった。〔シーズン150四球以上を記録した選手はバリー・ボンズ、ベーブ・ルース、マーク・マグワイア、テッド・ウィリアムズとヨストの5人である。〕ヨストは1959年にトレードでデトロイト・タイガースに移り2年間在籍しているが、この2年間は打率が.270前後だったにも関わらず、四球の多さから2年続けてリーグ1位の出塁率を記録している。 その後1960年にエクスパンション・ドラフトでロサンゼルス・エンゼルスに移籍し、現役最後の2年間を過ごしている。引退した翌年から、セネタース、メッツ、レッドソックスと1984年まで21年間各球団のコーチを歴任した。1969年にはワールドシリーズで優勝した「ミラクル・メッツ」の一員にもなっている。 2012年10月16日、死去〔Eddie Yost, dubbed “The Walking Man,” passes away at age 86 NBC Sports 2012年10月17日閲覧〕。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エディ・ヨスト」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Eddie Yost 」があります。 スポンサード リンク
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