翻訳と辞書
Words near each other
・ エドアール・ダラディエ
・ エドアール・バラデュール
・ エドアール・ブランリー
・ エドゥ
・ エドゥアウド・ダンタス
・ エドゥアルダ (小惑星)
・ エドゥアルト
・ エドゥアルト (アンハルト公)
・ エドゥアルト・アインシュタイン
・ エドゥアルト・アウグスト・フォン・レーゲル
エドゥアルト・エルトマン
・ エドゥアルト・エンゲルマン
・ エドゥアルト・ガンス
・ エドゥアルト・クレープスバッハ
・ エドゥアルト・シェーンフェルト
・ エドゥアルト・シュトイアーマン
・ エドゥアルト・シュトイエルマン
・ エドゥアルト・シュトラウス
・ エドゥアルト・シュトラウス (1955-)
・ エドゥアルト・シュトラウス1世


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

エドゥアルト・エルトマン : ミニ英和和英辞書
エドゥアルト・エルトマン
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


エドゥアルト・エルトマン : ウィキペディア日本語版
エドゥアルト・エルトマン

エドゥアルト・エルトマン''Eduard Erdmann'', 1896年3月5日 ラトヴィアのヴェンデン(現ツェーシス) - 1958年6月21日 ハンブルク)はドイツピアニスト作曲家バルト・ドイツ人の家系で、大叔父に哲学者ヨハン・エドゥアルト・エルトマンがいる。'Eduard Erdmann'', 1896年3月5日 ラトヴィアのヴェンデン(現ツェーシス) - 1958年6月21日 ハンブルク)はドイツピアニスト作曲家バルト・ドイツ人の家系で、大叔父に哲学者ヨハン・エドゥアルト・エルトマンがいる。', 1896年3月5日 ラトヴィアのヴェンデン(現ツェーシス) - 1958年6月21日 ハンブルク)はドイツピアニスト作曲家バルト・ドイツ人の家系で、大叔父に哲学者ヨハン・エドゥアルト・エルトマンがいる。
==生涯==
リガで最初の音楽教育を受け、ブローア・メラーシュテンとジャン・デュ・シャスタンにピアノを、ハラルト・クロイツブルクに和声法対位法を学ぶ。1914年からベルリンコンラート・アンゾルゲにピアノを、ハインツ・ティーセンに作曲を師事。1920年代から1930年代初頭にかけて、しばしばドイツの主要な作曲家の一人として言及されており、さらにバッハベートーヴェンシューベルトを得意とし、同時代の音楽を擁護するピアニストとしても国際的にも名を馳せた。1925年からケルン音楽院ピアノ科の教授に任命されるが、ナチスによって1935年に辞職に追い込まれ、内的亡命を余儀なくされて、第二次世界大戦が終わった後も、ほとんど何も作曲できなかった。1950年ハンブルク高等音楽院ピアノ科の教授として活動を再開するが、1958年心臓発作の末に他界した。
エルトマンが作曲家として評論家の注目を集めるようになったきっかけは、アルバン・ベルクに献呈された《交響曲 第1番》が、1919年に大評判をとったことによる。フェルッチョ・ブゾーニの門人フィリップ・ヤルナハのほか、エルンスト・クシェーネクアルトゥール・シュナーベルとも親交が深く、さらには画家のエミール・ノルデとも交流があった。ティーセンやシュナーベルに同じく、シェーンベルクやベルクの表現主義音楽に深い感銘を受けてはいたものの、十二音技法を採用することはなく、むしろ調性感が非常に薄い、際立って半音階的な音楽語法を好んだ。作品数は非常に少なく、とりわけピアノ曲は驚くほど数少ない。しかし交響曲は4曲あり、そのうち最後の未出版の2曲は、戦後になって作曲された。エルトマンは早くも1920年に、ベートーヴェンからシェーンベルクに至る、極度の主観主義への反感を露わにし、その代わりにエルトマン自身の言葉を借りれば「第三者的な形式」によって、シュッツブルックナーを手本に、より客観的な音楽を創り出すことに打ち込んだ。
エルトマンの作品については、未だにほとんど顧られておらず、戦後の作品はみな自筆譜のままで遺されている。戦間期の名声からすれば、こんにちではエルトマンは著しく低い評価に甘んじていると言わざるを得ないが、2006年には一連の管弦楽曲のCDが発表されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エドゥアルト・エルトマン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.