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エドゥアール・グリッサン(Édouard Glissant、1928年9月21日-2011年2月3日)〔"Martinican poet Edouard Glissant dies at age 83", Associated Press. 3 February 2011. 〕は、カリブ海のフランス領マルティニーク出身の作家、詩人、文芸評論家。彼は、多くの人達から、カリブ人の思想と文化を考える際に最も影響力の大きい存在だと考えられている。 == 経歴 == エドゥアール・グリッサンは、フランス海外領のマルティニーク、サント=マリーで生まれた。〔リセ・シェルシェ(奴隷制度廃止論者だったにちなんで名付けられた学校だが、ここでは詩人のエメ・セゼールも学び、母校に教師となって戻ってきた)という国立学校で学んでいる。(セゼールは、この学校でレオン・ダマにも会っている)後に、パリで、詩人で、後にセネガルの初代大統領となるレオポール・セダール・サンゴールに合流し、ネグリチュードの概念を形作り、発展させていく。セゼールはグリッサンに直接教えたことはなかったが、しかし、グリッサンの向上意欲を刺激する存在であった(グリッサンは、セゼールの哲学のいろいろな面をたくさん、鋭く批判してはいたのだが)。当時、この学校にはまた、フランツ・ファノンも在籍していた。 グリッサンは、1946年にマルティニークを離れ、パリに向かう。パリで、彼は博士号を取得し、民族誌学(=異文化・異人種論)を人類博物館で学び、歴史学と哲学をパリ大学で学んだ。1958年にルノードー賞を受賞している。グリッサンは、ポール・ニゲとともに、1959年に分離独立主義者の最前線である「自治のためのアンティロ・グイヤネーズ党」を設立した。その結果として、シャルル・ド・ゴールは、1961年から65年までの間、グリッサンがフランスから出国するのを禁じることになった。グリッサンは1965年にマルティニークに戻り、マルティニーク研究所、そして社会科学の出版を行うアコマを設立する。グリッサンは、自分の時間をマルティニーク、パリ、ニューヨークの3箇所に分散することになった。1995年以降、ニューヨーク市立大学大学院センターのフランス語教授を務める。2006年1月には、当時のフランス大統領であるジャック・シラクから、奴隷貿易の歴史を主に扱う新文化センターの総裁に就いて欲しいと依頼される。〔"Speech by M. Jacques Chirac, President of the Republic, at the reception in honour of the Slavery Remembrance Committee (excerpts)" , ''French Embassy''.〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エドゥアール・グリッサン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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