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エドウィン・P・モロー : ミニ英和和英辞書
エドウィン・P・モロー[えどうぃんぴーもろー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エドウィン・P・モロー : ウィキペディア日本語版
エドウィン・P・モロー[えどうぃんぴーもろー]

エドウィン・ポーチ・モロー(、1877年11月28日 - 1935年6月15日)は、アメリカ合衆国政治家弁護士であり、1919年から1923年まで第40代ケンタッキー州知事を務めた。就任当時の共和党の典型的な政策、すなわちアフリカ系アメリカ人への平等な権利を主張し、暴力行為を鎮めるために武力を使った。1883年に知事候補になった父のトマス・Z・モローや、1895年に知事に当選したウィリアム・O・ブラッドリーから共和党の主義主張について教えを受けていた。二人ともケンタッキー州で共和党を立ち上げた党員だった。
米西戦争(1898年-1899年)に参戦したが、戦闘に直接関わることはなかった。1902年にシンシナティ法学校を卒業し、ケンタッキー州レキシントンで法律実務を開業した。自白強要と偽証によって殺人罪で告発されていた黒人の無罪を勝ち取ったことで、直ぐにその名声を得ることになった。1910年、ウィリアム・タフト大統領からアメリカ合衆国東ケンタッキー地区検事に指名され、1913年にウッドロウ・ウィルソン大統領から解任されるまで務めた。1915年、友人の民主党オーガスタス・スタンレーに対抗して州知事選挙に出馬した。選挙では471票という僅差で敗北し、ケンタッキー州知事選挙の歴史では最も接近した結果となった。
モローは1919年州知事選挙にも再度出馬した。対抗馬は民主党現職のジェイムズ・D・ブラックであり、その年の初期にスタンレーがアメリカ合衆国上院議員に就任したことに伴い、副知事から昇格していた。モローは有権者に「1915年の誤りを正す」と訴え、女性参政権、人種暴動の鎮圧など進歩主義的綱領で選挙運動を行った。具体的例を挙げて民主党政権の汚職を告発した。選挙では大勝した。1920年の議会は友好的であり、反リンチ法、州政府の再編成など政策の多くを法制化し実行した。この年には1人の黒人囚人をリンチから救ったことで全国的な評判を呼んだ。暴動を防止しなかったり、鎮められなかった地方役人を辞めさせることに躊躇しなかった。1922年までに民主党がケンタッキー州議会の勢力を取り戻しており、知事任期の後半ではあまり成果を挙げられなかった。知事を辞した後、アメリカ合衆国鉄道労働者評議会と鉄道仲裁委員会の委員を務めたが、選挙で選ばれる役職に就くことは無かった。フランクフォートで従兄弟と共に暮らしていた1935年6月15日に心臓発作で死亡した。
== 初期の経歴 ==
エドウィン・ポーチ・モローは1877年11月28日に、ケンタッキー州サマセットで生まれた。父はトマス・ザンジンガー・モロー、母はバージニア・キャサリン(旧姓ブラッドリー)だった〔Hay, p. 152〕〔"Kentucky Governor Edwin Porch Morrow". National Governors Association〕。この父母には8人の子供が生まれ、エドウィンと双子の兄弟チャールズがその一番下だった〔Jillson, p. 22〕。父はケンタッキー州で共和党を立ち上げた党員の一人であり、1883年には州知事選挙で党公認候補になったが落選した〔Harrison in ''The Kentucky Encyclopedia'', p. 655〕。母は、1895年に州知事に当選したウィリアム・オコーネル・ブラッドリーの姉妹だった〔Powell, p. 86〕。
モローの幼いときはサマセットの公立学校で教育を受けた〔。14歳の時にレバノン近くにあるセントメアリーズ・カレッジの予備校に入学した〔Jillson, p. 24〕。1891年から1892年までそこで学んだ〔。その後、ウィリアムズバーグにあるカンバーランド・カレッジ(現在のカンバーランド大学)に入学し、ディベートの世界で頭角を現した〔。スポーツにも興味があり、アメリカンフットボールではハーフバックを、野球では左翼手でプレイした〔Jillson, p. 25〕。
1898年6月24日、米西戦争に従軍するケンタッキー第4歩兵連隊に兵卒として入隊した〔〔〔Tapp, p. 376〕。最初はケンタッキー州レキシントンに駐屯しており、その後アラバマ州アニストンで訓練した〔Jillson, p. 27〕。腸チフスが流行したために実戦に出ることはなく、1899年2月12日には少尉で除隊となった〔Cotterill in ''Dictionary of American Biography''〕。1900年、シンシナティ法学校秋学期に入学した〔。1902年法学士の資格を得て卒業した〔。
モローはレキシントンで法律実務を開業した〔。最初期に扱った事件が殺人で起訴された黒人ウィリアム・モスビーの裁判であり、それで評判を確立した〔。モスビーの第一審は評決不能陪審で終わっていたが、彼に不利な証拠は自白(後に撤回)であり、周りは第二審で有罪になると見ていた〔Jillson, p. 30〕。担当の判事はモスビーの弁護士を見つけられなかったので、若く、働きたがっていたモローに白羽の矢を立てた〔。もろーは被告の自白が強要されたものであることを証明した。被告は監獄の外にリンチを要求する暴徒が待っていると告げられていたが、実際にはそのような暴徒は居なかった〔Jillson, p. 31〕。さらにその他の被告に不利な証言が偽証であることも示した〔。モスビーは1902年9月21日に無罪となった〔。
モローは1903年にサマセットに戻った〔。1903年6月18日にはキャサリン・ヘイル・ワッドルと結婚した〔。ワッドルの父はモローの父に付いて法律を勉強した者であり、エドウィンとキャサリンは遊び友達、クラスメイト、恋人同士だった〔Jillson, p. 33〕。この夫婦には、1904年にエドウィナ・ハスケル、1908年にチャールズ・ロバートの2人の子供が生まれた〔Jillson, p. 34〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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