翻訳と辞書
Words near each other
・ エドガー・シャイン
・ エドガー・ジョーンズ (映画監督)
・ エドガー・スノウ
・ エドガー・スノー
・ エドガー・セルジュ
・ エドガー・ゼルゲ
・ エドガー・ソーサ
・ エドガー・ダイクストラ
・ エドガー・ダビッツ
・ エドガー・ダヴィッツ
エドガー・ダービッツ
・ エドガー・ダーヴィッツ
・ エドガー・テケレ
・ エドガー・ドガ
・ エドガー・ド・ラルミナ
・ エドガー・バウアー
・ エドガー・バルデス・ビジャレアル
・ エドガー・パングボーン
・ エドガー・フォイヒティンガー
・ エドガー・フォール


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

エドガー・ダービッツ : ミニ英和和英辞書
エドガー・ダービッツ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エドガー・ダービッツ ( リダイレクト:エドガー・ダーヴィッツ ) : ウィキペディア日本語版
エドガー・ダーヴィッツ[ちょうおん]

エドガー・スティーヴン・ダーヴィッツEdgar Steven Davids, 1973年3月13日 - )は元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF。元オランダ代表
== クラブでの実績 ==
アムステルダムにあるオランダの名門サッカークラブ、アヤックスの下部組織、アヤックス・アカデミーを経た後、1991-92シーズンデビュー。
1994-95シーズンにはパトリック・クライファートヤリ・リトマネンフィンランド代表)等と共に20歳の若さで、ACミランを下しUEFAチャンピオンズリーグを制覇する。その後トヨタカップにも来日、グレミオをPK戦の末下して世界一の称号も手にする。翌年のUEFAチャンピオンズリーグも決勝まで勝ち進んだが、ユベントスに敗れた。
その活躍が認められ1996年にはイタリアセリエAのビッグクラブ、ACミランに移籍。入団一年目は15試合に出場。しかし、二年目は開幕直後にペルージャ戦でGKと交錯して骨折してしまう。その後、1997年にミラン首脳陣はシーズン半ばに彼との確執を理由に彼を放出、同セリエAのユヴェントスに移籍させる。
名門に加入した彼は、1997-98シーズン途中加入ながらスクデット(当時25回目)に多大な貢献をしてチームメイトの皆が信頼を寄せた。
1999年ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で81位に選出された。2000年には薬物使用(筋肉増強剤ナンドロロン)に引っかかり出場停止となってしまう。本人は「緑内障の治療薬に含まれる成分が原因」とコメントしているがオランダ代表だったフランク・デ・ブールも同時期に同様の薬を服用したとして出場停止処分を受けている。
ユヴェントスとの契約は2001年までの予定であった。しかしながら、2004年6月まで延長となる。この契約更新後、両者の関係は悪化していく。CLでのアーセナル戦において、当時監督のマルチェロ・リッピが彼を休養させる為、クロアチア代表でもあるイゴール・トゥドールを起用すると、この起用策に怒りを露わにした彼は生中継中のカメラに「ゲームに出さないなら、チームを俺は離れるだけだ!!」とぶちまけた。これにユヴェントス首脳陣はダービッツに多額の罰金を科し、関係はますます悪化する。
2002年、ダーヴィッツはローマにもラブコールを送っているなどともささやかれた。ローマは高く彼を評価し、一時は移籍も話に出たがモッジGMはそうはさせず白紙となる。2003-04シーズンはブレシアから、若手のガーナ人、ステファン・アッピアーの入団によりポジションを奪われ、プレーするのは重要度の低い試合ばかりとなる。プレミアシップの強豪、チェルシーの大物会長ロマン・アブラモビッチからの多額のオファーもあったが、彼は首を縦に振らなかった。
一方、当時の代表監督ディック・アドフォカートはアヤックス時代エドガーが共にプレーしたこともある、元FCバルセロナの監督のフランク・ライカールトにレンタルという名案を提案する。これを首脳陣も快く納得しスペインリーガ・エスパニョーラのFCバルセロナへと新天地も求めた。こうして2004年1月11日に正式に移籍が発表される。これでダーヴィッツはEUROまでの十分な環境を手に入れた。これは両チームにおいても効果的であったことは間違いない。1月17日、アスレティック・ビルバオ戦(結果1-1)にデビュー。その後も活躍し、不振に苦しむチームをリーグ2位に押し上げる最大の原動力となった。
その後2004年7月、シーズン終了後に大量補強をにらんだイタリアセリエAインテルへ完全移籍、その戦場を移す事となる。しかし、序盤戦はスタメン出場をしたものの、徐々に戦術の関係で出場機会は少なくなり、同ポジションの豊富な選手層もそれに追い討ちをかけた。次第にマンチーニ監督との関係も悪化し、インテルを退団。2005年イングランドトットナムに移籍した。入団一年目はトットナムの好成績を後押しする形での貢献をしたが、2年目になると、コートジボワール代表で“パスマイスター”の異名を持つディディエ・ゾコラの入団、台頭もあって出場機会が減少。そのこともあってか、出場機会を求め、2007年1月に古巣アヤックスへ11年ぶりに復帰した。2007-08シーズン開幕前のプレーシーズンマッチゴー・アヘッド・イーグルス戦にプロテクターを付けずに出場、案の定左足脛骨を骨折し長期の離脱を余儀なくされた。2008年6月にアヤックスからリリースされ、約2年間のブランクを経て2010年8月にイングランド、フットボールリーグ・チャンピオンシップクリスタル・パレスへ移籍するも、同年11月に退団した。
2012年10月、フットボールリーグ2バーネットFC選手兼任監督として加入すると発表された〔DUTCH LEGEND DAVIDS SIGNS FOR BARNET FC バーネットFCオフィシャルサイト 2012年10月12日〕。
2013年12月28日に行われたソールズベリー・シティFC戦で2枚目のイエローカードを受けて退場処分、試合後審判への不満から現役引退を表明した〔ダーヴィッツ、今季3度目の退場後に引退を表明 Goal 2013年12月29日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エドガー・ダーヴィッツ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Edgar Davids 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.