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エドムンド・レオポルド・ド・ロスチャイルド : ミニ英和和英辞書
エドムンド・レオポルド・ド・ロスチャイルド
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


エドムンド・レオポルド・ド・ロスチャイルド ( リダイレクト:エドムンド・ド・ロスチャイルド ) : ウィキペディア日本語版
エドムンド・ド・ロスチャイルド

エドムンド・レオポルド・ド・ロスチャイルド少佐(, 、1916年1月2日 - 2009年1月17日)は、イギリス銀行家実業家軍人
英国ロスチャイルド家庶流の一人。1955年から1975年にかけてN・M・ロスチャイルド&サンズの経営を任せられていた。カナダニューファンドランド州の総合開発事業で知られる。愛称はエディ。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===
1916年1月2日ロンドンメイフェアのパークストリート46番地にライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルドの長男として生まれる。母はマリー・ルイズ・ベーア〔エドムンド(1999) p.14-16〕。姉にローズマリー、弟に、妹にナオミがいる〔エドムンド(1999) p.19〕。
1928年に父が庶民院議員を辞職したのを機にパークハウスからケンジントン・パレス・ガーデン18番地へ引っ越した〔エドムンド(1999) p.20〕。
ハーロー校を経て1934年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した〔〔エドムンド(1999) p.63〕。大学の陸軍訓練部隊に所属していたエドムンドは1935年の夏休みからに所属する〔エドムンド(1999) p.65〕。
大学卒業後の1937年10月から1939年5月にかけて世界旅行に出た。まず大英帝国自治領南アフリカへ向かい、アフリカ旅行を開始し、元ドイツ植民地の英領タンガニーカまで足を伸ばした。アフリカ旅行を終えると南アフリカから日本の商船「さんとす丸」に乗船して南米ブラジルへ渡航した。アルゼンチンチリエクアドルコロンビアパナマなど南米諸国を歴訪した。パナマから大英帝国自治領ニュージーランドオーストラリアへ渡航し、さらに英領シンガポールへ渡航してフランス領インドシナ英領インドなどアジア各地を歴訪した。インドではガンジーと会見した。ガンジーはナチスの台頭など反ユダヤ主義が高まるヨーロッパでのユダヤ人の苦境に同情しながらも、暴力の抵抗ではなく、不服従で抵抗すべきと訴えたという。「それで殺されてしまったらどうなるのです?」とエドムンドが問うとガンジーは「人は力によって得る物は何もありません。ただ失うだけなのです」と答えたという〔エドムンド(1999) p.75-124〕。
アジア旅行を終えると、19か月にわたった世界旅行を終了させて1939年5月にイギリスに帰国した。帰国翌月の6月にN・M・ロスチャイルド&サンズに入社した〔エドムンド(1999) p.126〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エドムンド・ド・ロスチャイルド」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Edmund Leopold de Rothschild 」があります。




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