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エドワード7世(、アルバート・エドワード、、1841年11月9日 - 1910年5月6日)は、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代イギリス国王、インド皇帝(在位:1901年1月22日 - 1910年5月6日)。 母であるヴィクトリア女王の在位が長期に渡ったため、史上最も長くプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の立場にあった。 在位は1901年から1910年までの10年足らずであったが、その治世は「エドワード朝(Edwardian era)」と呼ばれる。在位中は1905年まで保守党(ソールズベリー侯爵とバルフォア)、その後は自由党(キャンベル=バナマンとアスキス)が政権を担当した。彼の治世下に日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本・フランス・ロシアとの関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれた。 王妃はデンマーク国王クリスチャン9世の娘アレクサンドラ(愛称アリックス)。 == 概要 == 1841年11月9日、ヴィクトリア女王とその王配アルバート公子の第2子(長男)として生まれる。同年12月4日にプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の称号を得る。1842年1月25日に洗礼を受け、「アルバート・エドワード」と名付けられた。「バーティ」と愛称された(→''生誕'')。 幼少期・少年期は母と父の厳格な教育方針のもと家庭教育で育てられた。1852年にはベルギー、1855年にはフランスを訪問した。1859年1月から5月にかけてはイタリアに留学した(→''幼年・少年期'')。 同年10月にオックスフォード大学に入学(イギリス歴代国王で初めての大学入学)。在学中の1860年7月から11月までやアメリカ合衆国各地を歴訪した。1861年夏に陸軍に入隊。同年10月にはケンブリッジ大学へ転校した。不良行為が多く、11月には父アルバートが体調が悪いのを押してケンブリッジを訪問し、説教された。これが原因でアルバートは体調を悪化させ、12月に薨去した。以降女王はバーティを疎むようになり、公務から遠ざけるようになった(→''大学時代'')。 1863年3月にデンマーク王女アレクサンドラ(愛称アリックス。デンマーク国王クリスチャン9世の娘)と結婚。1864年に妻の母国デンマークとプロイセン・オーストリアの間に第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発し、彼はデンマークを助けようと同戦争の仲裁のための国際会議開催を後援したが、同会議は失敗に終わり、結局デンマークはシュレースヴィヒとホルシュタインを失った。これをきっかけにバーティ夫妻は反プロイセン派になった(→''結婚とデンマーク戦争'')。 1866年11月、ロシア皇子アレクサンドル(後のアレクサンドル3世)とデンマーク王女マリー・ダウマー(愛称ミニー)の結婚式に出席するため訪露。さらに1867年6月のパリ万国博覧会に際してロシア皇帝にガーター勲章を授与することに尽力し、ロシア皇室との親善を図った(→''ロシアとの関係修復'')。1869年1月からはエジプト、トルコ、ギリシャの三か国を訪問した(→''エジプト・トルコ・ギリシャ歴訪'')。 同年のの離婚訴訟をめぐって証人として出廷する事態になり、世間から皇太子としての資質を疑われた。女王がアルバート薨去後に引きこもったこともあって、王室人気は危機に瀕した(→''モーダント離婚訴訟事件'')。しかし1871年11月から12月にかけて腸チフスを患って命の危機に瀕したところ、劇的に回復したことで人気を回復した(→''腸チフスからの回復'')。 回復後は宥和的になり、特定の国や人物に敵意を飛ばすことが減り、王族らしくなった。1873年5月のウィーン万国博覧会を支援し、同地で会見したドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム1世と親睦を深めた(→''ウィーン万国博覧会への協力'')。1874年1月には長弟アルフレッド王子とロシア皇女マリアの結婚式出席のため訪露し、ロシア皇室との友好を深めた(→''弟とロシア皇女の結婚をめぐって'')。1875年11月から1876年3月にかけて英領インド帝国を訪問し、女王の名代としてインド藩王たちにインドの星勲章を与えることでインド支配層の懐柔に努めた(→''英領インド公式訪問'')。1878年5月のパリ万国博覧会にも協力し、英仏友好にも尽力した(→''パリ万国博覧会への協力'')。1881年3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるとその葬儀に出席するとともに新皇帝アレクサンドル3世にガーター勲章を贈った(→''ロシア皇帝暗殺をめぐって'')。ドイツにも頻繁に訪問し、ドイツ皇室との友好に努めたが、1888年10月にはオーストリアでドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と揉める事件があった(→''ドイツとの友好目指して'')。 1891年初頭にはをめぐって訴えられ、再び法廷に立つことになり、皇太子批判が高まった(→''ロイヤル・バカラ・スキャンダル'')。1892年1月には長男クラレンス公アルバート・エドワード(愛称エディ)が薨去。以降は次男のヨーク公ジョージ(後のジョージ5世)が彼の後継者となった(→''長男エディの薨去'')。 1901年1月22日に母ヴィクトリア女王が崩御し、59歳でイギリス国王に即位。王名を「エドワード7世」に定め、王朝名をサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝に変更した(→''即位'')。1902年8月9日にウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行した(→''戴冠式'')。 内政では保守党政権時期にはアーサー・バルフォアの主導で中等教育制度確立を目指すバルフォア教育法が制定され、またアイルランド小作人への宥和政策であるウィンダム法が制定された(→''保守党政権期'')。1905年に自由党政権に代わると首相ヘンリー・キャンベル=バナマンを強く信任したが、野党保守党が貴族院で法案を否決する戦術をとったことにより改革は前に進まなくなった。1908年にハーバート・ヘンリー・アスキスが首相になると政府の急進的政策に警戒を強めつつ、野党保守党に極端な行動を取らないよう説得にあたった。財務大臣ロイド・ジョージの主導で老齢年金法が制定され、さらに庶民院の優越を定めた議会法制定を目指したが、その法案をめぐる自由党と保守党の対立の最中に崩御した(→''自由党政権期'')。 外交では保守党政権期に第2次ボーア戦争が終結し、南アフリカを併合した(→''第2次ボーア戦争終結'')。また極東においては中国分割をめぐって満洲占領・北中国の勢力圏化を推し進めるロシアを警戒し、日本と軍事同盟を締結した(→''日英同盟'')。日露戦争でも日本を支援した(→''日露戦争をめぐって'')。フランスとも友好関係を深め、世界各地で発生していた英仏の植民地争奪戦を互譲的に解決し、英仏協商関係を築いた(→''英仏協商'')。さらに自由党政権時代にはロシアとも友好関係を深め、中央アジアのグレート・ゲームを互譲的に解決して英露協商関係を築く(→''英露協商'')。しかしドイツとの関係は悪化の一途をたどり、彼の崩御から4年後には第一次世界大戦が勃発することになる(→''ドイツ・オーストリアとの対立'')。 過労で気管支炎を悪化させ、1909年5月6日に崩御した(→''崩御'')。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エドワード7世 (イギリス王)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Edward VII 」があります。 スポンサード リンク
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