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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
初代準男爵サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(Sir Edward William Elgar, 1st Baronet, :ja:メリット勲章 とリンク -->" TITLE="OM">OM, :ja:ロイヤル・ヴィクトリア勲章 とリンク -->" TITLE="GCVO">GCVO、1857年6月2日 - 1934年2月23日)は、イングランドの作曲家、指揮者。もとは音楽教師でありヴァイオリニストでもあった。 エルガーが遺した楽曲の多くは母国イギリスのみならず、世界中の演奏会で取り上げられている。中でも最もよく知られるのは『エニグマ変奏曲』や行進曲『威風堂々』、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲、2曲の交響曲などである。また、『ゲロンティアスの夢』をはじめとする合唱作品、室内楽曲や歌曲も作曲した。 1904年(47歳)にナイト、1931年(74歳)准男爵に叙されている。1924年からは国王の音楽師範を務めた。 == 生涯 == === 若年期 === エルガーは1857年6月2日、ウスター近郊ので生まれた。父はドーヴァー育ちでロンドンの音楽出版社での見習い経験を持つ、ウィリアム・ヘンリー・エルガー(William Henry Elgar、1821年-1906年)であった。ウィリアムは1841年にウスターへと移り住み、ピアノ調律師として働きながら楽器商として楽譜や楽器を販売する店を営んでいた〔 〕。1848年、彼は農家の娘であったアン・グリーニング(Ann Greening、1822年-1902年)と結婚する〔 〕。エドワードは7人きょうだいの4番目であった。 母のアンはエドワード誕生の直前にローマ・カトリックへと改宗しており、エドワードもカトリック教徒として洗礼を受けて育てられたが、これは父の認めるところではなかった。ウィリアムはプロ並みの腕前を持つヴァイオリニストであり、1846年から1885年にかけてはウスターのセントジョージ・カトリック教会(St George's Church)でオルガニストを務めていた。彼が旗振り役となってケルビーニやフンメルのミサ曲が初めてで演奏されることになり、彼自身もヴァイオリンの演奏で参加した〔"Edward Elgar", ''The Musical Times'', 1 October 1900, pp. 641?48〕。エルガー家の子どもたちは皆、音楽を教え込まれており、エドワードは8歳までにはピアノとヴァイオリンのレッスンを受けていた。彼は時おり、ウスターシャーの名だたる家々を回ってピアノを調律していた父に連れられて出かけていき、地元の名士らの前で技量を披露する機会を与えられた〔。 エルガーの母は芸術に関心を持つ人物で、息子が音楽の道に進むのを後押しした〔。エルガーはこの母から文学面での審美眼と田舎町に対する強い愛情を受け継いだ〔Moore (1984), p. 11 and Kennedy (ODNB)〕。エルガーの友人で伝記作家のウィリアム・ヘンリー・リードが記すところでは、エルガーの幼少期の環境が与えた影響は「彼の作品全てに染み渡っており、彼の生涯にわずかながらもなお真正かつ頑強なイングランド的特性を授けたのである〔Reed, p. 1〕。」エルガーは幼いころから作曲を始めていた。10歳頃にはきょうだいで演じる劇を作曲しており、その40年後に彼は若干の修正のみを行ったこの曲にオーケストレーションを施し、組曲『子供の魔法の杖』とした〔。 エルガーは15歳になるまでウスター近郊のリトルトン・ハウス校で一般教育を受けた。一方で、彼が地元の教師たちから受けていたピアノとヴァイオリンのレッスンを超える公式な音楽の訓練は、1877年から1878年にかけてロンドンに滞在した際にアドルフ・ポリッツァーに師事して受けた発展的なヴァイオリンの特訓のみだった。エルガー自身の言によれば「私の最初の音楽はで学んだもの(中略)それと、8歳、9歳か10歳頃に音楽図書館から借りた本で学んだものだった〔''Quoted'' by Kennedy (ODNB)〕。」彼はオルガン演奏の教則本を使って勉強し、音楽理論に関しては見つけられた本を片端から読み漁った〔。中でも最も役に立ったのはヒューバート・パリーが『ニューグローヴ世界音楽大事典』に執筆した論説だったと、彼は後になって述べている〔Reed, p. 11〕。エルガーはさらに音楽を学ぶためにライプツィヒ音楽院への留学を目指し、ドイツ語を勉強し始めた。しかし、彼の父には彼を国外へやる経済力がなかった。ミュージカル・タイムズ紙は後になって、エルガーがライプツィヒ留学を果たせなかったことは彼の音楽的発展にとって幸運なことだったとの考察を掲載した。「こうして芽を出し始めた作曲家は様々な楽派のドグマを回避できたのである〔。」エルガーは1872年に学校を卒業してすぐにライプツィヒに赴かず、地元の事務弁護士の元で事務員として働くことになったことに失望していた。性分に合わない事務員でのキャリアを見出せず、音楽ばかりでなく文学にも埋め合わせを求めた彼は貪欲に書籍を読み耽った。この時期に彼はヴァイオリニスト、オルガニストとして最初の公開演奏を行っている〔Moore (1984), pp. 57 and 67〕。 数ヵ月後、エルガーは音楽の道に身を投じるべく事務弁護士の元を後にし、ピアノやヴァイオリンのレッスンを行うと同時に折に触れて父の店で働くようになった〔。彼はウスターのグリークラブで父と共に活発に活動する傍ら、歌手を伴ってヴァイオリン演奏、楽曲の作曲や編曲、そして初めての指揮も行った。ポリッツァーはエルガーにヴァイオリニストとして国を代表するソリストとなり得る才能があると信じていたが〔"Edward Elgar", ''The Manchester Guardian'', 24 February 1934, p. 16〕、エルガー自身はロンドンの演奏会で一流ヴィルトゥオーゾたちの演奏を耳にして、自分の演奏には十分な音色が欠けていると感じて、ソリストになるという野心を捨ててしまう〔。22歳になった彼はウスターから5km離れたのウスター・アンド・カントリー精神科養護施設(英語版)付属楽団の指揮者の職に就いた〔。楽団はピッコロ、フルート、クラリネット、ホルン2、ユーフォニウム、3人から4人の第1及び第2ヴァイオリン、場合によってヴィオラ、チェロ、コントラバスやピアノという構成だった〔Young (1973), p. 47〕。エルガーは奏者に指導を行い、この特殊な編成の楽団のためにカドリーユやポルカなどの音楽を作曲、編曲した。ミュージカル・タイムズ紙はこう書いている。「この実践的な体験が若い音楽家にとって最大の価値を有していたことがわかる。(中略)彼はこれらの様々な楽器の性能について実用的知識を得た。(中略)彼はそうして音の色彩、並びにこれらやその他の楽器の詳細をつぶさに知ることになったのである〔。」彼は1879年以降この職に5年間留まり、週に1回ポウィックへと足を運んでいた〔。彼が初期に就いていた他の職にはのヴァイオリンの教授があった〔。 元来孤独を好み内省的な性格であったエルガーであるが、ウスターの音楽サークルでは目立つ存在だった〔。彼はウスターやバーミンガムの音楽祭でヴァイオリンパートに加わっており、そうした中でドヴォルザーク自身の指揮で交響曲第6番と『スターバト・マーテル』を演奏できたのは大きな経験となった〔 .〕。また彼は、オーボエ奏者で自ら組織した吹奏楽団の指揮をしていた弟のフランクとともに管楽五重奏団でファゴットを吹いていた〔。エルガーはモーツァルト、ベートーヴェン、ハイドンやその他の作曲家の多くの作品を五重奏用に編曲し、自身の編曲と作曲の腕前を磨いていった〔。 初めてとなる海外旅行で、エルガーは1880年にパリ、1882年にライプツィヒを訪れた。彼はサン=サーンスがマドレーヌ寺院のオルガンを演奏するのを耳にし、第1級のオーケストラの演奏会に出席した。1882年に彼はこう書いている。「シューマン(私の理想!)、ブラームス、ルビンシテイン、ワーグナーにどっぷり浸かったので、文句を言う理由などありません〔。」ライプツィヒでは音楽院で学んでいた友人のヘレン・ウィーヴァー(Helen Weaver)を訪ねた。2人は1883年の夏に婚約を果たしたが、この縁談は理由はわからないものの翌年破談となってしまった〔。エルガーは大いに悲嘆にくれる。彼が後年ロマン的な音楽へ謎めいた傾倒を見せるのは、ヘレンや彼女に対する想いがほのめかされていることが一因かもしれない。生涯のあらゆる場面で、エルガーはしばしば親しい女性の友人から霊感を得ている。ヘレン・ウィーヴァーに続くのはメアリー・ライゴン、ドーラ・ペニー、ジュリア・ウォーシントン、アリス・ステュアート・ウォートリー、そして最後は彼の晩年に活気付けたヴェラ・ホックマンである〔Moore (1984), pp. 96, 264, 348, 512, 574, and 811〕。 1883年、バーミンガムにおいてW.C.ストックリーの冬期コンサートシーズンのオーケストラに定期団員として在籍中、エルガーはフル・オーケストラ用に作曲した最初期の楽曲群のひとつ『''Serenade mauresque''』の演奏に加わった。ストックリーは彼に自作の指揮をするよう呼びかけたが、彼が次のように述懐する事態に終わった。「彼は拒絶するのみならず、オーケストラで演奏することを強く希望した。その結果、聴衆の心からの温かい拍手に応えるために彼はフィドルを手に登場せねばならなくなった〔引用元 "Edward Elgar", ''The Musical Times'', 1 October 1900, pp. 641-48〕。」エルガーは自作の出版を取り付けるためにしばしばロンドンへと赴いたが、この時期には落胆することが頻繁にあり金欠に喘いでいた。1884年の友人宛の書簡にはこう書いている。「私の見通しはほとんどこれまでどおり望み薄です(中略)私は元気が乏しいわけではないと思います。そうしたわけで、私は時々これは能力の乏しさなのだろうと結論付けるのです。(中略)私にはお金がない?1セントもありませんよ〔Kennedy (1987), p. 15.〕。」彼は長年、ウスターのセントジョージ教会のオルガニストだった父ウィリアムの助手を務め、1885年からの4年間は父の後任として働いた。この期間に彼はローマ・カトリックの伝統に則って初めてとなる礼拝用作品群を書いている。4声の合唱のための『3つのモテット』 Op.2(1887年; 「''Ave Verum Corpus''」、「''Ave Maria''」、「''Ave Maris Stella''」)を皮切りに、1888年の司教のセントジョージ教会公式訪問の際の入場曲として『''Ecce sacerdos magnus''』へ付した音楽が続く。これら4曲は教会での合唱レパートリーに残り続けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エドワード・エルガー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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