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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
サー・エドワード・トマス・ダウンズ(, 1924年6月17日 – 2009年7月10日)は、イングランドの指揮者。オペラの専門家として知られ、「テッド ()」の愛称で親しまれた。2009年に、病に侵された夫人とともに尊厳死を選ぶとして、国外で自殺あるいは心中を遂げ、イギリス国内で大々的に報道された。 == 略歴 == 1924年に銀行の出納係の息子として生まれる。14歳で学校を中退すると、父親によって勤めに出され、ガソリンスタンドで週84ポンドを稼いで糊口を凌いだ〔Alan Blyth and David Nice, Obituary—Sir Edward Downes—Leading conductor of Verdi at Covent Garden and a stalwart champion of Prokofiev , ''The Guardian'', 14 July 2009. Retrieved on 15 July 2009〕。5歳からヴァイオリンとピアノを習っていたため、16歳で奨学金を得てバーミンガム大学に進み、英文学と音楽を専攻してコーラングレーの演奏を始めた。アバディーン大学から2年間カーネギー奨学金が得られたことで、指揮者としての修業がしやすくなり、お蔭で王立音楽大学大学院課程を修了後に、ヘルマン・シェルヘンに師事することができた〔Jill Lawless Conductor Downes, wife die in Swiss suicide clinic ''Associated Press'' 14 July 2009)〕。 コヴェントガーデン王立歌劇場との長期にわたる実り豊かな関係は、ラファエル・クーベリックの助手に任命された1952年に遡る。初仕事はマリア・カラスのせりふ付けだった〔。コヴェントガーデン劇場には17年間にわたって籍を置き、准音楽監督として1991年に退任した後も、例年のように客演指揮者として舞台を踏んだ。コヴェントガーデンに少なくとも950回出演して、49作のオペラを指揮している〔Sir Edward Downes biography (2006年9月29日時点のアーカイブ)〕。 そのほかに、1970年にオーストラリア歌劇場の音楽監督に就任し、1973年にはシドニー歌劇場の杮落しを指揮した〔(このとき《戦争と平和》のオーストラリア初演を実現させている)。また、1983年に勇退するまでオランダ放送交響楽団の首席指揮者でもあった。世界中の主要なオーケストラと共演したが、中でもBBCノーザン交響楽団(現・BBCフィルハーモニック)との関係はとりわけ長期に及び、首席客演指揮者として迎えられてから、首席指揮者に抜擢され〔Keith Potter, "Opera and Concert Reports" (Proms). ''The Musical Times'', 130(1760), pp. 621-35 (October 1989)〕、最終的には名誉指揮者に上り詰めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エドワード・ダウンズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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