|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ テラ : [てら] 【名詞】 1. tera- 2. 10^12, (n) tera-/10^12
エドワード・テラー(Edward Teller、 もとのハンガリー名ではテッレル・エデ(Teller Ede)、 1908年1月15日 - 2003年9月9日)は、ハンガリー生まれでアメリカに亡命したユダヤ人理論物理学者である。アメリカの「水爆の父」として知られる。ローレンス・リバモア国立研究所は彼の提案によって設立された。 本来の専門分野では、原子核物理学、分子物理学などで多くの業績があり、代表的なものにヤーン・テラー効果やBETの吸着等温式がある。 == 生涯 == === 生い立ちと学歴 === 1908年、オーストリア=ハンガリー帝国のブダペストで弁護士の父と、銀行家の娘で4カ国語をこなす才媛の母のもとに生まれた〔足立 (1987) pp.282-283〕。テラー家は、裕福なユダヤ人知識階級であった。幼少のころから算数の才能を見せ、学校に上がる前に足し算・引き算のみならずかけ算を覚えたという逸話がある。 11歳のころの1919年3月21日、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、クン・ベーラ率いるハンガリー共産党が政権を握り、ハンガリーの企業・土地といった資産をすべて国有化した。この影響で父マックスが弁護士の職を失い、一家は貧窮した〔 〕。 同年8月、クン政権はホルティ・ミクローシュ大将率いるハンガリー国新陸軍によって倒される。不幸なことに、クンはユダヤ人であり、ハンガリー共産党のリーダーの多くもユダヤ人であった。ハンガリーの反ユダヤ主義とホルティによる白色テロの高まりを受け、一家は1926年にハンガリーを去り、ドイツへ移住した。テラーが18歳の時であった。 最初ハンガリーのブダペストで短期間化学工学を学んだのち、ドイツで高等教育を受け、そこでも同じく化学そして数学を学び、1930年にライプツィヒ大学のヴェルナー・ハイゼンベルクの元で物理学の博士号を取得した。その後、ゲッティンゲン大学で助教授として2年を過ごした〔足立 (1987) pp.289〕。 1933年にドイツの政権を握ったアドルフ・ヒトラーがユダヤ人敵視政策を取り始めると、テラーは1934年、の助けでドイツを離れる決心をした。一時期イングランドに滞在した後、ニールス・ボーアのいたコペンハーゲンで1年を過ごし、1935年8月、アメリカに移住した。また、その直前の1934年2月、テラーは初恋の人ミチ (Mici) と結婚している〔足立 (1987) pp.292〕。同じハンガリー出身のレオ・シラードが、アルベルト・アインシュタインの署名入りの書簡を使ってアメリカ政府に原子爆弾の研究を働きかけた際には、ユージン・ウィグナーとともにその活動に加わっていた。 幼少時代のハンガリーでの好ましくない経験にもかかわらず、1930年に世界恐慌の波がドイツに押し寄せ、資本主義の崩壊を目の当たりにしたテラーは、共産主義に両義的感情と興味を抱いていた。 しかし、アメリカに渡った後、友人のレフ・ランダウがソ連政府によって逮捕されたことを伝え聞くなど、ソ連への反感を次第に強めていった。 1943年にスターリン体制の下での理不尽な裁判と粛清を描いたアーサー・ケストラーの小説『真昼の暗黒』を読んだことが決定的な契機となって、以降は根強い反共感情を抱くようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エドワード・テラー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|